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2011年8月15日 (月)

野田佳彦の正体(その2)



野田佳彦の正体(その1)
http://wachauf.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/1-4836.html




 民主党が政権を取る前、私には、民主党の中では、野田佳彦が一番まともに見えました。彼の風貌がそう感じさせるのか、何となく、保守に近い考え方と自衛隊員の家庭で育ったということの先入観が、そう感じさせたのかも知れません。

 でも、やっぱり、政治家ってわかりません。

 管内閣での彼の財務大臣としての仕振りをこの一年観察していると、私たち金融マンの方が、彼より、よっぽど適確な判断を下す事ができます。

 要は、野田佳彦とは、全ての分野において、単なる机上の学者稼業の政治屋に過ぎなかったのです。

 しかも、社会人としての実業経験が皆無ですから、適確な判断能力に欠け、自ら実践的な行動を取ることは、一つもありませんでした。彼が為し得たことは、ただ、見守ってじっとしていることだけでした。

 加えて、残念なことに、知れば知るほど、彼もまた他の民主党員同様、893や民団とのただならない関係があり、がっかりすることばかりです。

 そんな野田佳彦が、次期首相候補に上がってます。

 まあ、民主党は韓流でないと、トップになれないようですから、野田の首相もあり得るのでしょう。

 でも、日本人を主語に行動する政治家なら、民団や総連の集会に出かけ、選挙協力御礼を表明することなど先ずあり得ません。もう、この辺から、野田佳彦も、非常に怪しげな人物といえましょう。

 案の定、以下にご紹介する、政権交代直前の彼自身の著書には、『ここでいう「国民」とは、わが国の民主主義を支えているすべての皆さんのことです。』と、ルーピー並みの発言をしております。

 この一年で、野田佳彦も、化けの皮が剥がれてしまいましたが、3代続いて韓流主導の政治が続くとなると、私たちの我慢も限界ですし、日本経済の疲弊が、決定的なものになってしまう恐れがあります。

 日本人として、この辺で何としても、スオップ・ザ・韓流政治を実現し、民主党を壊滅させなければなりません。

 そのためにも、私たち日本人は、次期首相候補の野田佳彦の考え方を、事前に研究しておく必要があります。

 彼の著書から、以下参考文献を転載しておきました。

 これを読むと、政権交代前と交代後の、野田佳彦並びに民主党のダブスタ振りが非常に良く判ります。私たち日本人は、もう、彼らに騙されてはなりません。そして、これ以上、半島人主体の政治を許してはなりません。

 私たち草の根民間人の手で、日本人を主語とする政治を、取り戻しましょう。

 長文となりますが、ご興味がございましたなら、ご一読下さい。

 じっくり読むと、書いてあることのお花畑談義と、実際やっていることが、真逆なので、いかに、民主党と野田佳彦が、希有の詐欺師であったことが判って、もう、笑っちゃいます。

 
・・・・野田佳彦著「民主の敵/政権交代に大義あり」2009年7月20日新潮新書から・・・・



◆ まえがき(同書3-4p) 


 司馬遼太郎さん、藤沢周平さん、山本周五郎さん

 どなたも私の大好きな小説家です。

 実は私は、この三人の小説には政治家に求められる最低限の資質が凝縮されていると思っています。

 一つは夢。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』『龍馬がゆく』の世界です。このスピリットを持っていない人は、そもそも政治家失格です。

 もう一つは、矜恃。『たそがれ情兵衛』がごとき、藤沢周平さんが描く、凛とした侍のたたずまいです。政治と金の問題は飽きずにくり返されます。江戸時代の市井の下級武士の矜恃侍を持っているかどうかです。

 最後の一つは、人情。『赤ひげ診療譚』『さぶ』など、山本周五郎さんは人情の機微を描きました・国民のために慟くなどと言うのであれば、これがわからないと、血の通った政治はできません。


◆ 序章 五五年体制は終わったのか(20-22p)


 「失われた一〇年」といわれながらも、日本人はみんな、それなりに豊かに暮らしてきました。そういう日常の中で、今までのやり方を見直すというのは、勇気のいることです。やり方をチェンジすれば必ずよくなる、とは誰も約束できません。やぶ蛇で前より悪くなるのではないか。そういう気持ちの人がまだまだたくさんいるからこそ、いまだに民主党が政権を取れていない、といえるのかもしれません。

 しかし、高度経済成長のころと違って、今より明日がいいだろう、懸命に働けば今日よりいい生活ができるだろう、といった展望を、誰もが描ける状況ではなくなってしまいました。

 ずっと横ばい、もしくは、少しずつ右肩下がり・・・・。

 そこに、リーマン・ショック以降の世界的な規模での経済危機です。

 若い人はますます将来に希望が持てなくなっています。大多数の国民が、豊かさを実感できなくなってきています。豊かさというのは、安心、安定につながりますが、今はそれどころではない、不安を感じる人が増え続けています。

 こういうタイミングで、これから一〇年間で五九兆円も道路に使うという発想しかできないのが自民党です。

 小泉さんがぶっ壊したつもりの自民党は、結局、何も変わっていないのです。

 自民党は、角栄さんのスキャンダルを総括しきれませんでした。彼個人の問題に転嫁してしまって、自民党は膿を出しきることから逃げたのです。その矛盾、ほころびを隠しきれなくなっています。今の自民党は断末魔の悪あがきをしているようにしか見えません。

 軌道修正できなかった自民党による政治が行き詰まっていることは明白です。

 これまでの豊かな暮らしを死守するためにも、限られた資源の配分を変えるとか、お金の使い方を変えるというドラスティックな軌道修正をする、といったことが急務なのです。

 「大連立」を薦める人たちは、よく「政権交代は目的ではなく、政策を実現するための手段だ。民主党は政権交代にこだわらなくてもいいじゃないか。政権に入って政策を実現すればいい」と言います。一般論としては間違っていないでしょう。しかし、こと現在の日本においては話は違います。政権交代は、目的を達成するために不可欠の要素なのです。

 政権交代のない民主主義は、本当に民主主義といえるのでしょうか。

 本書を通して、日本の民主主義を駄目にしているのは誰なのか。「民主の敵」はどこにいるのか、考えてみたいと思います。


◆ 第一章「自民党」は一五年前に消滅している(56-59p)


 < 目指すは「中庸」>


 二〇世紀、社会主義が失敗だったことは歴史が証明しました。

 それでは、冷戦終結後に世界中を覆った市場原理主義、新自由主義はどうでしょうか。市場にまかせた結果は、破滅するまで手の施しようのない暴走であり、やはり万能ではないことがわかってきました。 
                       
 結局、大事なのは「中庸」なのです。極端に社会主義にも行かない、あまり新自由主義の原理にも振り回されない。まさに、民主党が主張してきたのは、そこです。だんだんと中庸に、落ち着くところに落ち着いていくときこそ、ちょうど我々の出番なのだろうとは思います。

 「なんだ、中庸が結論かよ」とがっかりされるかもしれません。しかし、かつて「一億総中流」といわれた時代と比べると、日本の成長を支えてきた中間層の厚みが薄くなってしまったと思います。その結果として、さまざまなひずみが生じているのです。

 良くも悪くも日本らしさの根幹だった中間層の厚み、その厚い中間層が維持されたままで、そこからがんばれば上流に勝ち上がれるならば、何の問題もありません。しかし、現状はまったく違います。

 上流階級が厚くなっているわけではなく、中間層からだんだん下流にこぼれてしまっています。いま問題なのは、セーフティー・ネットがないために、一度こぼれ落ちると、中間層に再び戻れないことです。

 政治がやるべきは、厚い中間層をもう一回つくり直すことであり、こぼれてしまった人たちを、しっかりまたすくい上げることができるセーフティー・ネットをどのように構築するかだと思います。

 昭和三〇年代~四〇年代の高度経済成長を経て、バブル崩壊まで、日本は基本的に右肩上がりの時代でした。そして、五五年体制と軌を一にする形で、中間層の比率は増え続けました。バブルがはじけてから二〇年、セーフティー・ネット論は、当時からあったのでしょうが、やはりしっかりと議論をして構築することを怠ってきました。それがジワジワと効いています。

 その最たる例が、近年特に問題になっている派遣社員の問題です。労働法制も含めて、だんだんと格差を拡大する方向に環境が整えられていったとしか思えません。企業としては、原料や半製品を中国などから安く仕入れて、人件費は正規社員一人よりは派遣社員二人のほうがいいというデフレ型経営を強いられる中で、仕方がない部分もあったのかもしれません。

 また一方では、過剰消費のアメリカに輸出をするというビジネスモデルー辺倒になってしまったところにも問題はあると思います。

 ただ、やはり経済活動の渦中にいる個々の企業にそのような大局的な視点を持てというのは難しいことでしょう。しかし、そういう面こそ政治が、一〇年、二〇年という長期的視野にたって対策を考えておくべきだったと思います。

 かつて、生活保護とか失業保険といった社会保障には、何となく恥ずかしいというイメージがつきものでした。そういうもののお世話になるだけで、落伍者的なイメージがつきまといました。今でもまだ、そういうイメージを持っている人はたくさんいるかもしれません。しかし、現在は、本人の努力とはまったく関係のない要因によって、はからずも中間層から落ちてしまう可能性が強くなっています。

 仕事を奪われるということは、命を奪われるのに等しいぐらい深刻な状況です。一昔前は多様な生き方、働き方があるということで、フリーターや派遣社員という道は肯定的にとらえられる面もあったように思いますが、今はそのような悠長なことをいっていられません。働きたくても働けないという問題が間違いなく存在しています。そういう人たちの生存権にかかわる問題に対して、政治がどう手当をするのかということが問われているのです。


◆ 第二章 国会議員は多すぎる(81-82p)


 ちなみに、選挙に関連しては、よく首相公選制の問題も取りざたされます。そのメリットは理解できるものの、現実的には、憲法の問題に立ち入ってしまいます。現時点では、実現性には乏しいといわざるを得ないでしょう。

 ただし、私としては、現行の制度の中でも、与野党の申し合わせで、それに近いことが実現できると考えています。そしてそうすべきだとも。

 具体的には、与野党で次のような申し合わせをするべきだと考えています。

 与党のトップ、要するに総理、総裁が交代するときには、民意を問う、すなわち総選挙を行うという申し合わせです。と同時に、民主党の人間としては言いにくいのですが、私は、衆議院の優越をもっと強化してもいいと思っています。

 衆議院優勢、衆議院の民意を優先するという方向性を一方で認めながら、そのかわり、トップが代わるときは必ず民意を問うために総選挙を行うことにすれば、実態としては首相公選に近づくと思います。
 ただ、そうなると難しい問題も当然出てきます。結果として総選挙が頻発してしまっては、政治の安定とはほど違いことになってしまいます。また、浮動票の動向に大きく左右される最近の選挙結果から考えると、ますます人気取りの政策とか、テレビ映えのする党首というのが求められて、ポピュリズムが加速する恐れはあるわけです。

 そういう意味では、まだまだ解決するべき問題はあります。しかし、それでも私は、その時々の民意を迅速に反映する政治を実現するべきだと思います。

 国民の手の届かないところで、国のトップが突然変わっていく・・・・。最近のケースはちょっと目に余るものがあります。

 小泉さんが選挙で勝った後、安倍、福田、麻生と三人も、民意を反映していない総理大臣が続いてしまいました。間接民主主義の建前からみれば、議院内閣制という制度の中では、違法な政権とまでは言えません。しかし、これだけ時代の変化が激しいときに、民意の裏付けのない政権が、国の舵取りをし続けるということでいいはずがありません。


◆ 第四章「自衛官の悴」の外交・安全保障政策(124-127p)


 また、中国に対してももっときちんとものを言っていくべきです。私は、国務委員だった唐花璇さんとやり合ったことがあります。二〇〇四年に松下政経塾出身の国会議員で訪中したときです。

 夕食会のときでした。こういう場合は、たいてい和やかな雰囲気に終始するよう振る舞いますが、儀礼的に友好を語っても意味はないと私は思ったのです。

 そこで、わが国の領土である尖閣諸島への中国人活動家七人の上陸、サッカーのアジア・カップにおける日本チームに対する露骨な反日的態度、東シナ海における日中の中間線付近におけるガス田開発、中国原子力潜水艦による領海侵犯、東シナ海及び沖ノ鳥島周辺のわが国の排他的経済水域における事前通告なしの調査船の活動など、日本の国民感情を逆なでするような事件をあげ、お互いにナショナリズムを煽り立てるようなことは避け、行動を慎むべきだと言いました。

 これに対し唐さんは、

 「尖閣諸島は、かつて鄧小平先生が二〇~三〇年後まで先送りし、後の世代の知恵にまかせようと言ったではないか。東シナ海における日中間の中間線は日本が勝手に主張しているだけで、我が国は一度も認めたことがない、太平洋上にある島を根拠に排他的経済水域を設定しているようだが、あれは岩礁に過ぎない」

 と、激しく切り返してきました。

 ここで引き下がっては日本の政治家として訪中した意味がありません。そこで私は、「尖閣諸島は歴史的に見ても明らかに日本の領土であり、議論の余地はない、確かに、かつて鄧小平氏がその領有の棚上げ諸を主張したが、一方で、一九九二年に中国は領海法を定めて尖閣諸島を自らの領土だと宣言しているではないか。しかも、最近は、東シナ海の六〇〇〇余りの無人島を民間の力を利用して実効支配しようとしているではないか。東シナ海における日中間の中間線を貴国が認めていないのはその通りだが、沖縄トラフまでが中国の大陸棚であるという貴国の主張も、我が国は認めたことがない。従って、この辺りの海洋は係争地域であり、事前通告なしの勝手な海洋調査や開発は国際法違反の疑いがある。沖ノ鳥島は、満潮時でも水没しないが故に、岩礁ではなく明らかに島である。かつて、満潮時には水没してしまう岩礁に高床式の据っ立て小屋を立てて、南沙諸島を実効支配した貴国にとやかく言われる筋合いはない」と、言いたいことをすべて吐き出し、反論しておきました。

 唐さんは不愉快そうでしたが、言うべきことは遠慮なく言い合うことが、真の友好を築くための第一歩だと思います。実際に、朱鎔基さんにこんなことを言われたことかあります。

 「日本人の政治家とか経営者と会ってもおもしろくない。日本人はよくうなずくし、こちらの言い分をしっかり理解してくれているように思えることが多いが、『これは』というときにも反論はまったくない。だから、会談を短くしているのです」

 確かに彼らは、言い過ぎかなとか、こんなことを言ったら怒るかなというようことでも遠慮せずに言うと、二〇分の会見の予定を、四〇分、五〇分と延ばしてきます。

 向こうにしてみれば、相手が何を考えているのか知りたいのです。しかるべき立場にいるわけですから、腹が立つようなことを言われて会見を切り上げるとか、喧嘩腰になるということにはなりません。

 双方が言うべきことを言わない限り、妥協点だって見つけられません。是々非々で駄目なものは駄目、かたや、協調できることはする、それはそれで進めればいいのです。

 ガス田、領土、歴史認識など厳しい問題が山積していますが、だからこそ厳しい覚悟が求められます。心がけなければいけないのは、相手の発言を定着させないことです。沖ノ鳥島は岩だ、などと言われたときには、即、反論しないといけません。国境に関しての干渉には、国威をかけて対応するべきです。

 あのときちゃんと言っておけばよかったという泣き言は、外交の世界では通用しません。何をやっても反論すら出てこないと思われた瞬間、なめられます。


◆ 国連至上主義を排する(127-130p)


 アメリカ、国連、それからアジアの三つが軸だという点については、だれが考えても異論がないのではないでしょうか。

 外交というのは外国との約束事ですから、政権が交代するたびに外交方針が一八〇度転換したのでは、国としての信用が問われてしまいます。アメリカ、国連、アジアを軸に据えて、あとは応用動作だと思います。

 気をつけなければならないのは、民主党は国連中心主義と言いながら、国連至上主義に陥っていると見られる点です。先はどの三つのうち、どれか一つの至上主義になるのではなく、巧みにバランスをとっていかなければなりません。国連といえども、さまざまな事情を抱えた国家の寄り合いであり、冷徹な国際政治の力学の上に成り立っています。国連決議が錦の御旗になるわけではありません。

 こと日本に関しては、いまだに敵国条項は残っていますし、国連は、まだまだ改革するべき課題をいっぱい抱えているのです。そういうことを度外視して、国連を理想視しすぎるのは、現実的な外交ではないと思います。

 日本は国連分担金をアメリカに次いで負担しています。かつては、常任理事国の英仏霧中の合計額よりも日本の負担金のほうが多かったぐらいです。にもかかわらず、影響力はなきに等しい。もう少し、日本が負担している金額に見合う発言権を確保するためにも、戦略的発想が必要です。

 国連以外でも、金だけ出すけど・・・・のケースが最近ありました。

 IMF(国際通貨基金)への一〇兆円資金拠出です。

 IMFの資金規模は全体で約三二兆円です。出資比率は、米国が一ハ%で一位。日本は六・三%で二位。以下、独が約六%。英仏が約五%と続きます。今回日本が一〇兆円出すと、一気に二八・六%までその比率がはね上がります。

 金融危機の原因と責任の大部分を負うべき米国も、世界一位の外貨準備高一七六兆円を有する中国も、その他の国々も、日本に呼応する動きはありません。なぜ、日本だけが突出して大盤振る舞いしなければならないのでしょうか。

 IMFの職員数は約二六〇〇人。そのうち日本人は僅か三六人。IMFから一〇兆円が新興国や中小国に緊急支援融資される際に、日本がその審査や管理に積極的に関与できる可能性はありません。他国の職員が好き勝手に配分することになるでしょう。国際機関への資金拠出よりも、本当に困っている国を個別に直接支援するほうが、日本の存在感を高めることができたのではないでしょうか。

 ODAも、似たような状況です。どれだけ貢献しているのか周知されていません。

 国連分担金もIMF拠出金もODAも、その源は日本国民が払った税金です。せっかくお金を使うのであれば、国際社会にしっかりとPRするべきだし、それ相応の権利を主張するだけでなく行使できるようにするべきです。


◆ 集団的自衛権を認める時期(133-136p)


 これまでの自衛隊をめぐる論争や現在に至る経緯を本書で詳しく述べる余裕はありませんが、国の自衛権はある、自衛のための実行組織を持つことは許されるというところまでは、ほとんどの国民に異論のないところだと思います。

 問題は、集団的自衛権です。政府見解としては、集団的自衛権は保持しているけれども、憲法上、それは行使できないということになっています。これを踏み越えることができるかどうかが一番の肝です。

 この問題をクリアしない限り、自衛隊を海外に出す話など、本来はしてはいけないのではないか、と私は思っています。

 集団的自衛権をフリーハンドで行使できるようにするべきであるというような、乱暴な話は論外です。しかし、いざというときは集団的自衛権の行使に相当することもやらざるを得ないことは、現実的に起こりうるわけです。ですから、原則としては、やはり認めるべきだと思います。認めた上で、乱用されないように、歯止めをかける手段をどのように用意しておくべきかという議論が大切になっていくわけです。

 やはり、実行部隊としての自衛隊をきっちりと憲法の中で位置づけなければいけません。いつまでたってもぬえのような存在にしてはならないのです。

 実際は戦闘機も、潜水艦も、戦車も、最新鋭のイージス艦までも持っている、隊員は命をかけて海外まで行っている現実がある。ようするに日本は軍隊を保持しているわけです。しかも世界的に見たら、かなりの規模と実力を有しています。

 自衛隊(Self Defense Force)などといっているのは国内だけで、外国から見たら、日本軍(Japanese Army,Japanese Navy,Japanese Air Force)です。その現実をふまえた上で、戦前の恐怖が国民にも周辺諸国にもあるのは隠しようのない事実なのですから、シビリアンコントロールのことも含めて、暴走する可能性をどうすれば抑止することができるのか、あらゆるルールをつくろうではないか、というのが、私の率直な思いです。

 国内での自衛隊の位置づけを明確にする。その上で、国際的な枠組みの中で自衛隊をどう活かしていくのかを考えるべきです。

 一九九一年のペルシャ湾への掃海艇派遣以来、九二年カンボジア、九六年ゴラン高原、二〇〇二年東ティモールなどへのPK〇、九四年ルワンダ、〇一年アフガニスタンヘの難民救援、二〇〇一年インド洋、〇四年イラクなどの後方支援活動、そして、今年のソマリアと、自衛隊の海外での貢献には、すでに一八年もの実績があり、国際社会の中で高く評価されています。

 にもかかわらず、いまだに、何か事が起こったときごとに、特別措置法という形で、泥縄式に対応しています。これは非常に問題だと思います。

 奇跡的なことですが、海外派遣されて戦闘で亡くなった自衛官は、ここまで一人もいません。仮に一人でも亡くなったら、おそらく大変な騒ぎになるでしょう。現在、一定の理解を得ている海外派遣についての国論も二分してしまうか、全くガラッと変わってしまうと思います。一気に「派遣は止めよ」という空気が作られることもありえます。国防という重大な事が、そのような雰囲気で左右されてはなりません。

 ただなんとなく、何もないことを祈りながら派遣している現状は、政治の無責任に他なりません。

 やはり、自衛隊を海外に派遣するときのルールは、一刻も早く明確にしておくべきだろうと思います。いわゆる恒久法の制定が必要です。そのためには、いまの自衛隊の経験や実力を見極め、装備の見直し、武器の使用基準についての環境整備などを、時間をかけて深めていかないといけないと思います。

 自民党にも民主党にも、いろいろな立場の人がいます。それをどう調整するのか。そう簡単に結論が出る問題ではないでしょう。しかし、すでに何十回も自衛隊は海外に行っているわけです。にもかかわらず、基本法がない。一番かわいそうなのは、実際に海外に行く自衛隊員です。


◆ 田母神さんを英雄視してはいけない(137-139p)


 自衛官の持つフラストレーションについては、親父のこともあるので、普通の人以上によくわかっているつもりです。しかし、それでも田母神俊雄前航空幕僚長については、やはり私は評価できません。

 田母神さんは、現役の幕僚長の立場でありながら、民間企業に「日本は侵略戦争などしていない」という主旨の論文を送ったことが問題とされました。私自身は、歴史認識については、タブー視をせずに見直していかなければならないという立場です。しかし、幕僚長という極めて専門性、戦略性が問われる立場にいて、何であの時期にあんな論文を書いたのかが問題なのです。

 自分の立場であのような発言をすれば政治問題化するのではないか、という見通しがなかったのだとしたら、航空自衛隊の制服組のトップとしての戦略眼を疑わざるを得ません。正直、幕僚長がこれほどそそっかしい人でいいのか、と不安を感じた方も多いのではないでしょうか。

 思想信条の自由が憲法で認められているとはいえ、最もナイーブな問題を、あの立場の人間が語れば影響は必至です。それをあえて今の立場で発言することで、問題提起をしたかったということであったとしても、なぜあの懸賞論文だったのか。

 特定の政治家と深いつきあいのあるグループの、しかも世間的にはほとんど知られていない懸賞論文です。タニマチからお小遣いをもらうための一つの方便だったのではないか、と勘ぐられても仕方のない関係でしょう。政治家や公務員は、「実際にどういう関係だったか」だけではなく、「怪しい関係と見られた時点で一定の責任が生じる」くらいのモラルを持たなければなりません。

 言いたいことがあるのならば、辞めてから正々堂々と言えばよかったし、それでも遅くなかったと思います。だから、田母神さんを、「よくぞ言った」というように英雄視するのは問題だと思っています。

 私の親父は制服組ですが、いわゆる下士官ですから天下り先なんてありません。親父は五十代前半で定年を迎えて辞めました。

 その後、予備校の寮の管理人とか、大和証券の雑用係などをしていました。もちろん、天下りではありません。天下りがあるのは、防衛大学校を出た幹部の話です。

 国内外問わず、自衛隊が、災害派遣やPKOなどの現場で感謝される機会は増えました。こういうとき、日本人はすごいと思います。その使命感、規律、品格など、総合的な評価はとても高い。そういう人が退職しても安心して暮らせるようにするべきです。

 中国の古典『司馬遷』に、次のような言葉があります。

 「国、大なりといえども、戦いを好まば必ず亡び、天下、安らかといえども、戦いを忘れなば必ず危うし」

 まさに至言です。古今東西、戦いを好んで滅びた国が数多いのと同時に、戦いに対する備えを怠って滅びた事例も多くあります。かつての大日本帝国は前者だったかもしれません。その後の日本は、後者に陥る危険性が常にありました。

 あの戦争に負けてから、六〇年以上、わが国が無事であったことは奇跡的なことです。アメリカとの同盟があったとはいえ、冷戦時代には対ソ戦略の最前線に位置し、現在でも核兵器の保有を誇示しながら恫喝外交を繰り返す国が近隣に存在します。

 国民の生命と財産を守るための法整備は、政治家として最低限の仕事だと思います。


◆ 第五章 新日本創成論(151-154p)


 < 憲法は「日本」がテーマの企画書 > 

 私は新憲法制定論者です。二〇世紀末ごろには憲法論議がいろいろなところで出てきていたと思いますし、そういう機運は高まっていました。ようやく国民投票法まではいきました。

 戦前の大日本帝国憲法に対して、戦後の日本国憲法のことを、よく「新憲法」といいます。しかし、世界中の憲法の中で、すでに一五番目くらいに古い憲法になっているそうです。とても新憲法と言える代物ではありません。九条はもちろんですが、社会の変化に伴って、プライバシーの概念、知る権利の関係、その他、いろいろな権利の概念も変化してきています。憲法は国家のグランドデザインですから、そこに暮らす人々にとって、使いにくいものではいけないわけです。だからこそ、修正することをタブー視してはいけないと思います。

 憲法改正というと、すぐに「九条を死守せよ。軍国主義の復活を許すな」云々という話が出てきて、それ以外の大事なポイントが議論されません。

 たとえば、地方自治についていえば、憲法では九二条から九五条までの四条しか触れていません。そのなかで本質的なものは、九二条の「地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」だけと言ってもいい。これでは何も言っていないに等しい。最近、道州制の議論が活発になっていますが、国の統治のやり方として、地方分権、地域主権といった要素も憲法に入れるべきだと思います。

 自衛隊論議はその最たるものですが、条文の解釈で問題を凌いでいくというやり方は、かえって危ないのです。恣意的な判断が入り込む可能性が出てくるわけですから。

 やはり政治の王道として、必要なところは国民にしっかり訴えて改正するべきなのだと思います。今は、基本動作がうまくできないので、解釈という応用動作でその場をやり過ごしている状態です。特別措置法を見ればわかりますが、このようにその都度応用動作で対処する方法には、非常に時間がかかります。それもあまり有意義ではなく、時間を空費しているようにしか、国民からは見えないでしょう。

 憲法論議は、少し盛り上がるとすぐフニヤフニヤと腰砕けになる歴史の繰り返しでしたが、世代交代が進むにつれて柔軟性を持ってきている感じがしますので、もう一息なのかもしれません。

 しかし、護憲であるということと、憲法改正について考えるということは対立するものではないはずです。もっと自由に憲法について議論ができることを願います。以前、中曾根さんが力を入れて書いた憲法試案がありました。明治憲法の制定前、植木枝盛をはじめ、自由民権運動の盛り上がりの中で、あらゆる地域、あらゆる階層の人たちが憲法草案をつくったといいます。やはり、国のグランドデザインにかかわる大事な話ですから、あのときのように、あらゆる考えに基づいた憲法案が出てきていいわけです。

 中曾根さんのように大ベテランがやってもいいし、新進気鋭の企画マンがやってもいいと思います。国家のグランドデザインを考えるというのは、とても前向きでおもしろいはずですよ。こんな言い方をすると怒られるかもしれませんが、憲法というのは、「日本」をテーマとした企画書なのです。

 憲法があって初めて、それを踏まえた個別法が出てきます。その一番根幹の土台の企画書が、時代おくれになっている。あの企画書の読み方はいかようにもできるというのではもうだめだと思います。それこそ百年の大計をつくらないと百年に一度の危機は乗り越えられないというならば、本当は憲法までさかのばったほうがいいと思います。

 だからこそ、自由な発想から自由な論議を積み重ねるべきであって、一字一句変えてはいけないというような、タブー視はいけないと思います。

 憲法の二文字が出てくると、すぐに改憲か護憲かの二つの紋切り型にはめて語る論調が目立ちます。だからあえて、私は新憲法制定という言葉を使っているのです


◆ 終章 民主党一二年目の反省と可能性(160-161p)


 < 山は確実に登ってきた >

 民主党はこの一一年、上り調子になって失敗をしてまた下がって、また頑張って気を取り直して、また失敗して、という山あり谷ありの繰り返しでした。

 それでも私は、一一年の山や谷をならして考えてみると、政党としての力はついてきていると思います。いろいろ心配もされましたが、確実に山を登ってきたのです。

 最初は、非自民の国会議員の寄り合いのような感じでしたが、地道に地方組織も作り、地域の中でも民主党の旗印が増えてきました。いまでは、民主党の議員がまったくいない地方自治体は、おそらくもうなくなっていると思います。

 そういう意味では、自民党に代わりうる、つまりは政権交代の可能性を感じていただける国民政党になってきました。

 よく党の欠点として「バラバラ」であると指摘されます。たしかにそれは否定できません。ただし、それもとらえ方次第だと思います。現在では「多様性」として容認できるレベルのものだと思いますし、党の方針として決まったことについて結束して動くことは、ずいぶん学習もしてきたと思います。

 民主党は、ピンチになると、必ず直後に選挙がありました。偽メール問題のときは、千葉七区補選。大連立騒動の後には、大阪の市長選挙。そういうとき、みんなで全力でやって、結果を出して生き残ることができるようにもなりました。

 実は、振り返りたくないことのほうが多いのですが、ここで民主党の歩んできた連のりを、反省をこめて振り返りたいと思います。

(179-181p)

 こうして政権交代が目の前に来たと思われた時に起きたのが、西松建設巨額献金問題です。小沢さんの公設第一秘書が逮捕され、国民の厳しい批判を浴びました。その逮捕自体には、さまざまな意見がありました。しかし、多くの国民が「説明責任を果たしていない」と感じていたのは事実です。これまでのクリーンなイメージが崩れかねない事態でした。党としては、第三者による検証委員会を設置しました。その答申をしっかりと踏まえた対応をしていきたいと思います。

 今後、この事件がどのように推移するのかは、私にはわかりません。「政府筋」のようにインサイダー情報を待っているわけではありませんから。ただし、結果としてせっかく期待してくださった方々に「またつまずきやがって」と失望感を抱かせることのないように、緊張感を保ちながら注視していきたいと思います。

 小沢さんは大局観に立って、潔く代表を辞任され、今は政権交代を実現するために地道に地方行脚を続けています。民主党は、国民の声をうけて、企業団体による献金やパーティー券の購入を三年後に廃止することや、世襲を制限する方針を固めました。

 この一点だけでも、民主党と自民党は明らかに違います。

 そのための「政治資金規正法改正案」は、私が作りました。 

 だからこそ、「結局、民主党も自民党と同じじゃないか」と思わないでいただきたいのです。本書で繰り返し述べているように、「政治なんて誰がやっても同じ」という時代はすでに終わっています。

 もしかすると、この数年、自公政権が成し遂げたことの一つは、そのような政治への無力感を醸成したことにあるのかもしれません。高度成長が望めない現代において、その無力感は確実に国民の生活を蝕んでいきます。これこそ、国民にとっての敵です。

 それに打ち勝つには政権交代が最強の武器である。そう私は思うのです。


◆ あとがき(182-188p)


 「政治の世界は一寸先は闇」というのは使い古された言葉ですが、実際のところ、この数年の動きは以前にも増して目まぐるしく、本書を書いている間にも、様々な出来事がありました。

 ですから、本書が刊行される前と後でも、かなりの変動がすでに起こっているかもしれません。

 しかし、ここまでお付き合いいただいた読者の皆さんに向けて、最後に今の時点での私の思いを述べて、筆をおこうと思います。

 二〇〇九年五月十一日、来る衆議院総選挙での必勝と政権交代の実現に向け、挙党一致の態勢をより強固にするために、小沢さんは民主党代表の職を辞することを決意されました。本来、組織のトップの出処進退はご自身が判断するべきであり、周囲が大騒ぎする筋の話ではありません。

 ですから、小沢さんの公設第一秘書が逮捕・起訴された三月以降、民主党議員はおとなし過ぎるのではないかと随分とご批判をいただきましたが、皆が固唾を飲んで小沢さんの熟慮の結果を待っていたのです。

 小沢さんは今度の総選挙を歴史的な政権選択選挙と位置づけ、悲願の政権交代を実現するために少しでも差し障りがあってはならないと、自ら身を引く覚悟を決められました。大局観に立った政治判断であったと評価したいと思います。

 この窮地を、代表選によって選ばれた新しいリーダーを先頭に、政権交代を実現するチャンスに転換していかなければなりません。その重大な使命を担う新代表に、鳩山さんが選ばれました。党務の要である幹事長には、代表選を戦った岡田さんが選任されました。

 そして、私は、岡田幹事長を支える幹事長代理に就きました。この執行部の唯一最大の使命は、国民の生活を第一とする新しい政権を作ることにあります。

 お蔭さまで、総選挙前の最初の関門であったさいたま市長選挙では初陣を飾ることができました。千葉市長選挙でも、三一歳の若い候補者を擁立し圧勝しました。かつて木村拓哉さんが総理大臣になるドラマが話題になりましたが、SMAPのメンバーより若い、政令指定都市の市長が誕生したのです。

 地殻の変動は間違いなく起こっており、この動きが止まることはありません。日々、辻立ちをして有権者の皆さんと接していても、その実感は強まるばかりです。 

 捕らぬ狸の皮算用は厳に慎まなければなりませんが、いまはまさに「政権前夜」だという思いを強くもっています。

 わが国が直面する最重要課題は、依然として経済対策です。二〇〇九年一~三月期経済成長率はマイナスー五・二%で、戦後最大の減少幅、主要国中最悪でした。昨秋の時璇点で適切な経済対策を講じていれば、このような結果にはならなかったのではないでしょうか。

 政府は従来、「企業収益が回復すれば賃金に反映し、消費に結びつく」と主張してきました。これは自民党の一貫した「思想」でもあります。しかし、〇二年以降、企業収益は急速に回復しましたが、賃金は上昇せず、消費は拡大しませんでした。「いざなぎ景気を超えた戦後最長の景気拡大」と大本営発表は繰り返されましたが、国民の生活実感は改善せず、地域は疲弊するばかりでした。

 通常国会では総額で約一四兆円にのぼる〇九年度補正予算が成立しました。麻生内閣が発足してから既に四回目の予算編成となります。政府・与党は戦後最大の補正予算だと吹聴しましたが、過去に三回組んだ予算が欠陥だらけで効果がなかったことを自ら証明したようなものです。

 そして、この四回目の補正予算も、史上稀に見る欠陥予算だと言わざるをえません。第一の欠陥は、相変わらず予算の多くが官僚OBの天下り先になっている法人に支出されていることです。その額は予算全体の二割近く、二兆八五〇〇億円余りにものぼります。

 さらに内訳を見ると、四九の独立行政法人に計一兆五六一〇債円の支出、その他の公益法人に計一兆二九四四債円の支出となっています。これらの法人に天下りしている官僚OBの数は九〇〇人を超えています。天下り先を養うための予算といっても過言ではありません。

 第二の欠陥は、予算総額の約三割にあたる計四兆三六七四債円が四六の基金に役入されることです。このうちの三〇基金(計三兆五一三三権円)は、新規に設けられました。予算を執行する態勢がにわかに間に合わないから、とりあえず基金を積んでおこうという発想なのでしょう。これらの基金は今後数年にわたり、官僚たちの裁量によって使われます。経済対策の規模を敢えて大きく見せかけるためのバラマキでしかありません。

 第三の欠陥は、財源です。埋蔵金と赤字国債でまかなおうとしています。与謝野大臣や財務省は、昨年まで埋蔵金の存在など認めていなかったはずなのに、いつの間にか国民の大事な資産を食いつぶす方針に転換したようです。国債発行額は一〇兆八〇〇〇億円。当初予算と合わせると今年度発行総額は約五〇兆円になります。たらい回しで生まれた麻生内閣が、巨額の借金をすることは許されません。

 働きアリの国民が納めた血税と子どもたちのポケットに手をつっ込んで得たお金で、白アリのような天下り団体を温存させようとしている。その構図を改めて見せ付けたのが、このたびの補正予算だったわけです。

 本書で繰り返し述べたように、民主党が調査したことで、この歪んだ構図、国民、国家を蝕むカラクリが次々に明らかになってきました。二万六〇〇〇人の国家公務員OBが四七〇〇の法人に天下りしていること、そして、それらの天下り法人に年間に一二兆六〇〇〇億円もの血税が流れている・・・・。このカラクリを壊さない限り、どんな予算を組んでも経済危機を乗り切ることはできないでしょう。

 そして、政権交代を実現しなければ、決して白アリを退治できません。

 私たちは党のためや、ましてや民主党議員のために政権交代を唱えてきたわけではありません。政権交代が可能な国を作ること。それが国民の幸福に直結すると確信しているのです。

 もちろん、ここでいう「国民」とは、わが国の民主主義を支えているすべての皆さんのことです。

 民主党支持者だけということではありませんし、自民党やその他の政党の支持者を排除するものでもありません。結果として、政権交代のメリットはすべての国民が享受できるものなのです。

 だからこそ、私は断言します。

 政権交代には大義がある、と。

 二〇〇九年六月 野田佳彦




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