« 野田総理、仮設住宅、まだ全戸完成しておりませんよネ | トップページ | 嘘は嘘でも > 野田佳彦のウソに翻弄されないために »

2011年11月29日 (火)

野田佳彦の心の故郷「韓国」の民族性を学ぼう(その4)




・野田佳彦の心の故郷「韓国」の民族性を学ぼう
 http://wachauf.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-f12e.html
・野田佳彦の心の故郷「韓国」の民族性を学ぼう(その2)
 http://wachauf.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/2-db81.html
・野田佳彦の心の故郷「韓国」の民族性を学ぼう(その3)

 http://wachauf.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/3-d262.html

812


◆ 笑韓劇場シリーズ「自作自演の嘘に酔いしれるノダ・ジョンイルくん」


http://www.youtube.com/watch?v=wVH6Qx3ubn4

">


★★★ 野田佳彦の大嘘3連発 ★★★

< 1分40秒から >

813

< 1分46秒から > お母様のお名前・出自はもちろん未公開

814

< 2分6秒から >


815



◆ 民主党 エラ呼吸で うそをつき


☆ 閣僚の国会答弁に関する質問主意書(山谷えり子2011.1.26)
  http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/177/syuh/s177023.htm

 政府は、森まさこ参議院議員から提出された「閣僚の国会答弁に関する質問主意書」(第一七六回国会質問第一七〇号)の「閣僚が国会において虚偽の答弁を行った場合、この閣僚にはどのような政治的・道義的責任が生じると考えられるか」との質問に対し、平成二十二年十二月十日、「答弁の内容いかんによるものであると考える」との答弁書(内閣参質一七六第一七〇号)を閣議決定した。
 一方、政治倫理綱領では、「われわれは、主権者たる国民から国政に関する権能を信託された代表であることを自覚し、政治家の良心と責任感をもつて政治活動を行い、いやしくも国民の信頼にもとることがないよう努めなければならない」とされている。
 先の答弁書は、政府及び国会議員に対する国民からの信頼を損ねるものであり、早急に撤回すべきと考えるが、政府の見解を示されたい。

  右質問する。


★ うそ? 全く問題ございませぬ by 初代半島人総理(2011.2.4)
  http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/177/touh/t177023.htm

 参議院議員山谷えり子君提出閣僚の国会答弁に関する質問に対する答弁書

 御指摘の答弁書(平成二十二年十二月十日内閣参質一七六第一七〇号)は、閣僚が国会において虚偽の答弁を行った場合に当該閣僚にどのような政治的・道義的責任が生じるかについては、当該答弁の趣旨、内容、当該答弁に至った経緯等を踏まえ、個別具体的に判断されるべきであるとの趣旨を述べたものであり、「国民からの信頼を損ねるもの」であるとの御指摘は当たらず、同答弁書を撤回する必要はないものと考える。



☆ 野田首相に政権交代要望書を渡す福島県の佐藤雄平知事(2011.11.24)

816
817
 
( ↑ 日本人4人 vs 親韓人 )



◆ 嘘が蔓延するのは民族性なのか > そうです


 
< 呉善花著「韓国倫理崩壊」2008年三交社刊から転載 >


 韓国社会にこれほどまでに嘘が蔓延しているのはなぜなのだろうか。

 私はなによりも、李氏朝鮮王朝時代に根づいた強固な血縁主義社会の「身内正義」の観念が、身内の利益のためには、外部の者に対してどんな不法行為をやっても許されるという反倫理の倫理を生み出したことにあるとみている。この伝統が今では、「自分正義」にまで分解したところで猛威を振るっているのだ。

 この悪しき伝統が社会的に乗り越えられないまま、近年の激しい市場競争のなかで「正道」をはずれた道への傾斜をいっそう強くしていき、韓国の社会はここまで腐りきってしまったのだと私はみる。自分白身の体験を振り返ってみても、日本に来てからそのことを痛切に自覚させられた。

 それでは、現在の韓国ではこのことをどうみているのだろうか。ある新聞は次のように語っている。

 「韓国人が嘘が上手だという記録は、旧大韓帝国末期に朝鮮を訪れた外国人宣教師の見聞録に度々登場する。一九二〇年代に、小説家李光洙(イ・グァンス)が民族改造論を掲げ、朝鮮人の短所をいくつかあげた。そのうちの一つが嘘だった。今日も『嘘共和国』という言葉を耳にするほど嘘が蔓延していることを、否定することはできないが、その背景を韓国の民族性のせいにする見解には賛成できない」(東亜日報2002.08.07)

 この記事は続けて、「嘘が上手な民族」という表現は、李朝末期に朝鮮を訪れた「西洋人宣教師が韓国人を見下して、自分たちが教化すべき対象であることを強調する『オリエンタリズム』的発想から生まれた側面が大きい」と述べている。そして、「昔の農村の素朴で寛大な人情、大義名分と道徳性のために命まで投げ出した昔のソンビ(学者)たちの気概を覚えている人々は、このような主張に同意しないだろう。李光洙の民族改造論も、結果的に日本の植民地支配を正当化する一助となった」と言うのである。

 イ・グァンス(李光洙)については終章で詳しく触れるので、ここでは論及しないことにする。そこでまずソンビである。

 朝鮮時代に、常に清廉潔白であることを誇りとするソンビと呼ばれる、ごく少数の学者たちがいたことは知られている。しかしながら彼らは、朝鮮社会はあまりにも汚濁にまみれているとして、自ら出世を拒絶して社会と絶縁し、ひっそりと田舎に草庵を営むなどして孤高をかこい、貧困な生活を厭うことなく自らの倫理を守り過したのである。彼らの存在こそが逆に、韓国伝統の社会がいかにモラリストたちに見放されるほど堕落していたかを物語っているのである。

 ともあれ、この新聞記事はソンビに見習うべきだとして、「カネと権力が社会構成員の至上の課題となるかぎり、貧しくとも堂々たる人生はお笑い草になるしかなく、嘘はけっして減りはしない」と言う。そして、「節約と清貧が価値観として根づき、家族や親戚など血縁に縛られないこと」が「嘘を勧める社会」から脱する方法ではないかと書いている。韓国ではいつもこのように、立派な言葉を並べたてては社会が悪いと言いつのり、過去の良いところだけを切り取ってきてそれに対置しようとするのだ。

 記事はまた、西洋の宣教師たちのオリエンタリズムが「嘘の上手な民族」という表現を生み出した側面が強いと述べている。ここで言うオリエンタリズムとは、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』(今沢紀子訳1986年平凡社刊)で論じた「西洋人の東洋観」のことである。

 サイードは『オリエンタリズム』のなかで、一般にオリエント(東洋)とされているものは、西欧的な文脈のなかで把えられたオリエントであって、オリエントの本当の姿ではない、それは西欧のオリエントに対する思考と支配の様式=オリエンタリズムにほかならないと論じた。そこからサイードは、「西洋は東洋を後進性、停滞性、非合理性といったさまざまなマイナス表象で彩っていった結果、遅れた東洋を進歩した西洋が救済するという正義の理念が生まれ、それが近代の植民地主義を正当化する根拠となった」と論を進めている。そのかぎりでは十分に言いうることだと思う。

 要するにこの記事は、このサイードの考えを我田引水し、朝鮮人が「嘘の上手な民族」だというのは、西洋人の「植民地主義を正当化する根拠となった」偏見・・・・オリエンタリズムに発するもので、従来からの民族性などではないと主張するのである。そこで「李光洙の民族改造論も、結果的に日本の植民地支配を正当化する一助となった」と言っているのだ。

 私が読んだことのある書物のかぎりでも、李氏朝鮮王朝末期の朝鮮を訪れた西洋人の「嘘の上手な民族」にかかわる発言は、目を覆うばかりにたくさん登場している。著名な書物から少しだけ引用してみると次のようなものがある。

「その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたらまったく驚くべきほどです。自分が正しい場合がほとんどないにもかかわらず悪びれる様子がほとんどない」
(アーソン・グレブスト著高演義・河在龍訳「悲劇の朝鮮」白帝社)
                                    
「彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼らをあまり信用してはなりません」
(ヘンドリック・ハメル著生田滋訳「朝鮮幽囚記」平凡社東洋文庫)

「耳に入れたことを嘘と誇張で潤色する。朝鮮は流言蛮語の国なのである。朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す」
(イザベラ・バード著時岡敬子訳「朝鮮紀行」講談社学術文庫)

 これらを一様に西洋人のオリエンタリズムだ、偏見だと切って捨てることは、果たして正しいことだろうか。


503





« 野田総理、仮設住宅、まだ全戸完成しておりませんよネ | トップページ | 嘘は嘘でも > 野田佳彦のウソに翻弄されないために »

民主党」カテゴリの記事

半島人」カテゴリの記事