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2011年11月23日 (水)

野田佳彦の心の故郷「韓国」の民族性を学ぼう




 
昨日の拙ブログにて、インドネシアと韓国の民族性の違いについてちょっぴり触れましたが、それを裏付けるようなエッセイがありましたので、2題、ご紹介しておきます。

 イザの人気No.1ブログ、ご隠居さまの「こりあうぉっちんぐ」ご愛読者のみなさま方でしたなら、このようなことは、笑韓劇場鑑賞のための初歩的知識なのですが、現実世界では、キムチ中毒症の方々の徹底した報道管制により、韓国の実相は、日本では全くスルーされてしまっております。

 ですが、それも、時間の問題。

 野田佳彦自らが、わずか2ヶ月で、己がDNAの異常性を暴露してくださいましたから、半島人の尋常でない民族性が、日本中に知れ渡るのも、そう時間はかからないでしょう。

 民主党のみなさま、性事資金で呑み喰いできるのも、あと、半年。

 逃亡資金の蓄財は、お早めに。



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◆ ベトナム人記者が韓国の反日狂騒に感じた大いなる違和感


< 黒田勝弘著「これが韓国主義」2009年阪急コミュニケーション刊から転載 >

 ソウルに来ているロシアや東欧など旧共産圏の国の外交官や記者たちには平壌経験者が多い。北朝鮮に語学留学したり平壌で勤務した経験のある者が、韓国と国交ができた一九九〇年代以降、ソウルに派遣されている。その結果、ソウル駐在の外交官たちの間で一時は「金日成大学同窓会」みたいな集まりさえあった。

 記者仲間でいえば、中国やロシアのソウル特派員なども平壌経験者が多い。ロシア(旧ソ連)のタス通信や、中国の人民日報の記者など、韓国と国交ができる前は平壌特派員として、南北非武装地帯の板門店で、よく顔を合わせたものだ。

 その顔見知りの彼らが今度はソウル特派員となってソウルにやってきて「やあ、やあ」となった。時代の変化とは実に面白い。

 そんな中でベトナムからやってきていたソウル特派員も実に興味深かった。最近、任期を終えて帰国したベトナム通信(VNA)のソウル特派員のことで、彼は一九六〇年代に十八歳で日本語の習得のために北ベトナムから北朝鮮に派遣されたという数奇(?)な経歴を持っていた。当時、日本とは国交がなかったため、同じ共産圏の北朝鮮で日本語を勉強したというのだ。

 後に東京特派員を経て、ソウルに来たのだが、平壌では日本語を学んだせいか、朝鮮語(韓国語)より日本語の方がうまかった。帰国にあたって送別の意味で日系居酒屋で一杯やった際、いろんな話しになった。

 「ひとことで言って韓国はどうだった?」「うーん、予測がつかない国だったということかなあ」といった話をしながら、ぼくの最大関心に移った。

 「ベトナムは八十年にわたって植民地支配されたフランスや、さらには戦争被害を受けた米国に対して謝罪や反省、補償など一切要求しない。しかもベトナムは今なお貧しい。それに対して韓国はこんなに豊かになりながら、今なお日本に対し謝罪、反省、補償を求め続けている。この違いはなぜなのだろう?」

 彼はいつもの人なつっこい顔をニヤニヤさせながらしばらく言葉を選んだ後、ひとこと「民族性の違いでしょう」と言った。「具体的に言えば?」と追い討ちをかけたがニヤニヤするばかりだった。

 ベトナムがフランスや米国に謝罪、反省、補償を要求しないのは、フランスや米国が過去の歴史について心から謝罪、反省し補償したからではない。フランスや米国は何もしていない。しかしベトナムは何も言わないのだ。フランスや米国と戦い、最後は勝ったという誇りと自信で十分ということだろうか。

 日本に対する韓国の果てしない(?)謝罪、反省、補償の要求は、日本がそれをちゃんとやっていないからというより、韓国人のモノの考え方が違うせい・・・・ベトナム人記者がいう「民族性」のせいだと思ったほうがいいようだ。

 最近の韓国は、大統領もマスコミも、自分たちの日本に対する要求は「普遍的価値」にのっとっているとしきりにいうが、あれは決して「普遍的」ではなくきわめて韓国的なのだ。だから日本に問題があるというより、韓国のほうに問題があるということになる。

 ただ、そういうのが韓国なのだから、文句をいっても始まらない。結局そうした「民族性」を念頭に付き合うしかない。


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◆ 福島は必ず乗り越える(じゃかるた新聞 2011.11.22トップ記事)

  http://www.jakartashimbun.com/


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< ハッサンさんがエール、戦時に留学、広島で被爆 >

 原爆投下当時、ハッサンさんはベイさんと二人で大学の教室で物理の補習を受けていた。ハッサンさんは爆風で天井まで飛ばされ、授業をしていた先生はその場で亡くなったという。

 四四年から四五年三月にかけて国際学友会(現・日本学生支援機構)で日本語を学んでいた際、東京大空襲も経験していたが、それとは比べものにならないくらいの衝撃に、最初は何が起こったのか分からなかった。ベイさんとともに壊れた窓から教室を出て、同僚の留学生を見に行くため、興南寮へ戻った。建物という建物はつぶれ、道には血を流したり、泣き叫んだりする人ばかり。車や路面電車の中には「助けて!」「水をください」という人がたくさんいたが、他人を助けるほどの余裕はなかったという。道ばたには無数の死体が見えた。

 興南寮で同じインドネシア出身のシャリフ・アディル・サガラさん(故人)を助け出した。そうするうちに、街の至るところで火の手が上がり、寮の前の元安川に飛び込んだ。川に架かっていた萬代(よろずよ)橋の橋桁の下に隠れ、六時間ほど過ごした。燃えゆく炎は川も覆い尽くしたが、その度に川の中に潜って難を逃れた。

 その後大学へ戻り、野原で一夜を明かした。これからどうしていこうかと途方に暮れた。近くで見つけたさつまいもとじゃかいもを蒸かして食べて飢えを凌いだ。翌日になると大学の職員が食事を持ってきてくれた。

 遺骸の収集など街の復旧作業に取りかかっていた軍人グループの一人が「日本に勉強をしに来てくれたのに、このような被害に遭ってしまい、相すみません」と友人の家を紹介してくれた。隣組の人たちが食事の配給をしてくれたりしてとても親切だった。その後、国際学友会の先生の引率で京都を経由し、東京に避難した。ハッサンさんが被害を受けたのが原爆だということが分かったのは、その後、しばらく経ってからだった。

 日本に留学したばかりに、数奇な運命をたどることになったハッサンさん。「日本に恨みはない。僕は、日本人と日本政府に感謝している。日本は僕の第二の故郷」と力を込める。

 終戦後は周りから「帰ろう」という声が上がり、インドネシア政府からも「今の日本には外国人を世話する力もないから早く戻りなさい」と言われたが、「せっかく日本に来たから勉強を続ける」と、進駐軍の下で、大きな火薬庫があった逗子市池子に三年間ほど勤務してお金を貯め、慶應義塾大学法学部政治科で五一年まで学んだ。

 「日本を愛しているから、インドネシアでダルマ・プルサダ大学を作り、日本語の普及を目指した。現天皇陛下が皇太子の時、大学を訪れ感銘を受けていた。より多くのインドネシア人学生を日本へ、日本人学生をインドネシアへ留学させる必要がある。インドネシア人は日本で科学技術の最先端分野を学び、日本人学生ももっと多く派遣されることを望んでいる」

 ハッサンさんは、日本で起きた原発事故についてどう思っているのか。

 「技術力がある日本でもこのような事故が起こる。インドネシアの原発推進については反対だ。原発以外の発電所を建設するべき。私は原爆を経験した。チェルノブイリのようなこともあった。インドネシアは日本の教訓に学ばなければならない」

◇ ハッサン・ラハヤさん

 一九二二年十二月二十二日、西ジャワ州ボゴール生まれ。八十八歳。広島文理科大学(現・広島大学)、慶応義塾大学で学び、五二年に帰国。海運会社経営などに携わり、七七〜八二年に国民協議会(MPR)議員、八二〜八七年に最高諮問会議(DPA)委員。二〇〇五年春の外国人叙勲で旭日中綬章受章。元日本留学生によるダルマ・プルサダ大学の創立者の一人。初期には日本の歴史や日本語を教えた。

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「原爆後の情景は鮮明に覚えている」というハッサンさん=西ジャワ州ブカシの自宅に飾る旭日中綬章の前で   




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