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2012年1月 5日 (木)

日韓併合で搾取されたのは日本、韓国ではない




お正月に「じっくり観よう、じっくり読もう、じっくり考えよう」シリーズ(その4)


■■ 中川八洋著「歴史を偽造する韓国」2002年徳間書店 ■■


< 第一章 巨額の財政負担・・・・日本の「近代化代行」の代償 >


◆ 金の代金「20兆円」も返還せよ


 以上のような、財政の中核部分のバランス・シートを、もう一度まとめると、戦費問題を除外すれば、日本が朝鮮に「搾取」された、日本本土からの日本人の現金は、最小値で二〇億八千万円である。朝鮮は、これを現在の価格に換算して(一円→三万円)、およそ六三兆円を返還すべきである。仮に一九三七年度からの戦費で朝鮮が負担した一〇億六六〇〇円については「日本の負担すべきもの」との主張が正しいとすれば、日本が朝鮮に「搾取」された上記の額は、約一〇億円に減額される。この場合、朝鮮が日本に返還すべき額は三〇兆円である。

 ところが、このような財政上の「もらい得」を認める韓国の人々ですらしばしば反論するのは、それ以外で日本は「搾取」し「奪った」というものである。次のような韓国の歴史教科書の嘘記述は、その典型である。

 「日帝は金、銀、鉛、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」(注6)

 だが、歴史の真実は、朝鮮は金だけでも日本への売却で一三億円強の日本円の「外貨」を獲得した。しかも、このほか朝鮮の金鉱業の開発で、日本は私企業を含めて数億円を投下した。道路や送電線など社会インフラはそのまま一般の朝鮮人の便益に役立った。日本は一グラムの金もタダでとったことはなかった。むしろ、設備投資を考えれば大赤字であったから、日本は他国からの輸入を選択すべきであった。

 もともと日本は韓国を併合したとき朝鮮の金にほとんど関心はなかった。道路も送電線もない「未開」の朝鮮の山岳地帯での開発コストを考慮すると採算があわなかったからである。しかし、一九三七年の日支事変の勃発に伴ない貿易決済のために日本政府として金が必要となり、「朝鮮産金五ケ年計画」が実施され、一九四二年まで一気に年に二四~三一トンの生産をした。しかし、米英との太平洋戦争の勃発をもって貿易が激減し金が不要となるや、日本政府は一九四三年からは全く買取りをしないと決めた。このため、朝鮮総督府は一二〇二あった鉱山のうち、一一三を残して、つまり九割以上をただちに廃坑にした(一九四二年)。そのぶん、金は朝鮮の山々に埋ったままとなった。もし日本が金を「略奪」するのなら、金が産出されている稼働中の優良な鉱山を九割以上も廃坑にしない。日本は朝鮮の金を一グラムも盗まなかった。盗んだのは朝鮮人の金鉱労務者その他であり、彼らはそれらをもって国際相場の四倍値で買う支那人に売るべく満鮮国境を越えたのである。

 金銀の、朝鮮の対日移出高は、一九一〇年から一九三六年までの二七年間では六億五五七二万円であった。一九三七年以降の移出統計はないが、金の産出量の統計はあるので、それらを日本政府がすべて買い取ったとすれば、約六億八四〇〇万円である。すなわち、朝鮮が手にした日本への金の売却代金(三六年までは銀を含む)は、一三億円強である(注5)。これに日本が負担した鉱山開発費の数億円を加えると、朝鮮は金に関して日本に全て負担させたのであり、当時の価格で約二〇億円の債務を有しているのと同じである。

 もし、金に関して日本を「略奪した」と難詰したいのであれば、仮に当時の一円を一万円とすれば「二〇兆円」を日本に返還したあと、口にすべきであろう。適正もしくは適正以上の価格で買い取ってもらっていながら、またその開発費をすべて日本に負わせておきながら、泥棒呼ばわりする韓国の歴史教科書は、無法者か野蛮人かのそれである。

 また、金の採鉱・製錬には電気が必要で、そのための送電線の建設のため、日本は公債をもってその資金を日本で調達した。一九三八年から一九四一年までにつくった送電設備(変電所を含む)の総額は五二九二万円であるが(注18)、これも社会インフラとして朝鮮に無料で差し上げたことになる。


(注5)大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史的調査」通巻第8冊朝鮮篇第7分冊

(注6)国定韓国中学校国史教科書「入門・韓国の歴史」明石書店

(注18)中央日韓協会「朝鮮電気事業史」



◆ 鉄道建設費「6.6兆円」も返還せよ


 「電気と鉄道などの事業は朝鮮総督府や日本の大企業がこれをにぎり、彼らの利益を増大させることに利用した」(注6)

 「嘘、嘘、嘘、・・・・」の韓国の教科書の、「嘘」の一つである。なぜなら、電気や鉄道などの大規模事業を実行する資本もその他も、朝鮮には実体的には何もなかった。鉄道の事業で日本は、日本人の血税を朝鮮の大地に注ぎ込んだ。朝鮮全土の、主要な鉄道もその主要な橋梁も機関車の多くも、日本人の汗と涙の結晶である。

 朝鮮の鉄道は、一八九九年九月十八日に、「仁川~鷺梁津」間(三二km)に開通したのが始まりである。この鉄道は、朝鮮が「京城(ソウル)~仁川」間(七三km)の鉄道敷設権を一八九六年に米国人モールスに与えたのを日本の「京仁鉄道合資会社」が買い取ったのである。そして一九〇〇年七月八日に、京仁鉄道は全線が間通した。日本で「新橋~横浜」間(三一km)の鉄道が間通してから二十八年の後であった。

 「京城~釜山(草梁)」間の京釜鉄道については、日本が一九〇一年に国策会社の「京釜鉄道株式会社」を設立して敷設することとなった。一九〇五年一月一日には全線が開通した(草梁・釜山間のみ一九〇八年)。この京釜鉄道株式会社は、先述の京仁鉄道合資会社も一九〇三年に買収して、両線は同一の会社で運営されるようになった。そして、日本政府は一九〇六年にこの京釜鉄道と京仁鉄道のすべてを買収したのである。その額は建設費を厳格に計算して約三五〇〇万円となった(注7)。この買収のすべての財源はまた、日本本土の日本人の税金であった。この一九〇六年の朝鮮一国の税・印紙収入は全部で七八四万円であった。朝鮮がどんなに逆立ちしてもこのような巨額の資金はどこにもなかった。

 京釜鉄道と京仁鉄道の二つだけでも、上記の歴史教科書の嘘はさらに明らかである。この二つの鉄道の開通は、一九一〇年設置の朝鮮総督府がまだない、朝鮮が独立国であったときの話である。それなのに教科書は朝鮮総督府が敷設したかのように書いている。また、かげろうのごとく生まれてすぐ消えた京釜鉄道株式会社は私企業とはいえず、記述の「大企業」は間違いである。

 京城と新義州を結ぶ京義本線については、朝鮮がフランスのグリールにその敷設権を与えたのを日本側(陸軍)が継承して建設したもので一九〇六年四月に全線開通した。また馬山浦線も日本陸軍が建設し一九〇五年十月には開通した。この京義本線と馬山浦線の建設費用は三一三八万円であった。これらの四線(京仁、京釜、馬山浦、京義)の運営はすべて、統監府鉄道管理局の所管となった。朝鮮総督府はまだ存在していなかった。「保護国」とはいえまだ " 国家 " であった朝鮮が上記四線すべてを運営したいのなら、この四線の建設費あわせて六六〇〇万円を一九〇六年に支払えば、それは可能であった。しかし、この一九〇六年、朝鮮は、借金山のごとくで「経済的亡国」に瀕し、財政は破綻していた。

 日本は、上記の六六〇〇万円のすべてを日本人の血税のみに課して、朝鮮人に一円たりとも負担させていない。それは(一八九六年から一九〇六年の一円が現在の十万円に相当するとすれば)「六・六兆円」であるから、上記のような教科書の嘘を書くのであれば、韓国が「六・六兆円」を日本に返還したあとにすべきである。

 この四線以降の鉄道は、「平壌~鎮南浦」間の平南線(一九一〇年十月開通)を除き、上記の四線からあがる運賃も含め公債その他の資金をあれこれと工面しながら、まさに爪にろうそくの火をともすような智恵を絞って、(一時期は南満洲鉄道株式会社に経営委託することはあったが)朝鮮総督府が建設した。「大田~木浦」間の湘南線(一九一四年)、「京城~元山」間の京元線(同)、咸鏡締(一九二八年)、国利線(一九三三年)、満浦線(一九三元年)、「平壌~元山」間の平元線(一九四一年)などである。

 なお、総督府が買収した私鉄には、南朝鮮鉄道株式会社(一九三五年)、朝鮮鉄道株式会社(「金泉渡~北安東」間、一九三九年)、北鮮拓殖鉄道株式会社(一九四四年)などがあった。当時の日本は鉄道が私企業で運営されることを好まなかった。このときの買収費用は一円残らず日本本国で調達して、朝鮮人にはいかなる形でも一円たりとも負担させていない。

 要するに、朝鮮での鉄道網そのものが朝鮮人のためだけでなく日本にも国策上裨益したことは事実である。が、金銭的な側面をいうならば、日本本国は一円の「利潤」すら得ていない。英国がインド鉄道から巨額の利益を得たのと逆である。


(注7)朝鮮総督府鉄道局編「朝鮮鉄道史大正4年版



◆ 韓国人は、鉄道・橋・港湾・道路・ダム・水田を破壊せよ


 日本の朝鮮統治代行というものがいかに世界第一級であったかは、その歴然たる成果が明白に証明している。この事実を隠し歪曲し転倒するために、一九九五年、当時の金泳三大統領はソウルに美しい姿で建っていた、日本の朝鮮統治のセンターであった旧・朝鮮総督府の建物を破壊を決定した(一九九六年末に解体撤去完了)。この破壊について、野蛮な行為だと非難するつもりはない。なぜなら、それは戦後の所有者である韓国の自由だからである。しかし、日本の朝鮮統治の「成果」を歴史から一掃したいのならば、矛盾なく一貫した行為をすべきであろう。

 まず、日本人の血税でつくった「新義州~京城」線などの、鉄道はすべて破壊すべきである。総督府がつくった橋も今もまだ残っているのならば、ことごとく破壊すべきである。釜山大橋(一九三四年開通、長さ二一五m)・洛東橋(慶尚南道、一九三三年開通、長さ一〇六〇m)・南旨橋(一九三三年開通、三四〇m)、その他である。道路も港湾も同様にそうすべきである。日本人の汗と智恵の結晶たる開墾水田を埋め立てるべきである。日本が植林した森林もことごとく焼却し、朝鮮の山野をかつての「禿山」に戻すべきである。また、日本の民間資本でつくられた、ダムや発電所・送電施設もことごとく破壊すべきである。

(備考)なお、著者(中川)は、朝鮮総督府の建物については、それが景福官の宮殿の敷地にあることにおいて、撤去されるべきと考えてきた。光化門から勤政殿を仰ぎ見るとき、君主の御所たる宮殿の美と雅と聖性は一つの民族が命をかけても守るべき価値がある、と確信せずにはおられない。そして、この景福官に李家から再び君主が即位して王室の宮殿になる日こそ、つまり立憲君主政体を回復する韓国の再生こそ、韓国の一流の文明国としての地位が定まると考えている。

 朝鮮総督府三十五年の歴史は、韓国にとって厳然と実在した歴史である。避けて通るのも、一つの賢明な対応であろう。しかし、現在のように、歴史事実を歪曲し捏造するのは、真実から自らを切断するが故に、必ずや韓国国民に人格上の健全性の自己破壊が生じていく。日韓関係も、永遠に「敵対」の枠に留まる。

 もし、日本の統治がなければ、経済破綻からすでに人口の激滅すらとまらなかった朝鮮には亡国の奈落が待っていた。印貞植「朝鮮の農業機構」(注16)を参考にする。印はマルキストだから、その数字そのものはかなり大袈裟で信を措くことはできないが、マクロ・トレンドは示していよう。まず、李朝の中期より三百年でその末期には耕地面積(田畑)は三分の一も滅ったという。人口は一八五二年の六八一万人が一九〇四年に五九三万人へ、百五十年間で一三%も滅ったという。そんな朝鮮の起死回生を、日本が奇跡的に担って代行したのである。日本にとって不運、朝鮮にとって好運であった。また、一五九二年の耕地面積一四六万結が一九〇七年には一〇〇万結と三分の二になった理由を、次のように記述している。

 「(李朝)歴代の支配者群による苛斂洙求、土地の無法なる併呑と収奪、民田の官庄土への不断の併合、法外に高率的な現物地代の徴収などによる一般農奴=農民への酷烈な重圧は、ついに彼ら農奴をして、あるいは農業の経営を抛棄せしめ、あるいは土地の豊度を損傷・枯痩せしめて、耕地の全面積をますます滅絶してきたのである」(一部ひらがな化は中川)

 前近代社会であった朝鮮の各世帯が電化したのは日本の私企業の並はずれた努力の成果であった。たとえば、朝鮮の一世帯当りの電灯数は一九二五年現在ですら日本の一六分の一であった。それでも表6が示すように、一九一二年に比すれば電灯数は一八倍に大増加した(注17)。一九四二年三月末、電灯普及率は朝鮮全体(全戸数)の一七・四
%になった。一九一七年三月末の一%未満からすれば驚異的な発展であった(注18)。そこで、日本の私企業が主体となった朝鮮電力の開発の歴史を簡単に触れておきたい。


< 表6 朝鮮の電灯数 >

       電灯総数
1912年   2万7525
1915年   8万5315
1920年   23万4066
1925年   48万6654
1935年   129万3822
1939年   206万3708


 日本の私企業の電力事業とはいえ、朝鮮全土の電化は総督府の悲願であった。総督府が企業を朝鮮の電力開発に誘うべく一九三〇年にまとめた電力計画調書は上下巻で九mという分厚いものであった,一九三二年の満洲国の建国によって朝鮮にも近代産業化の道が開かれ、電力とりわけ大規模な発電力をもつ水力発電が重視されその開発が推進された。結果として、各家庭の電灯数は急増した。一九三五年の一二九万個は、一九三九年には二〇六万個と、たった四年で六割も増加した(注19)。一九一二年に比すれば、一九三九年は七四倍になった(表6)。

 一九四五年八月の敗戦時における朝鮮の発電設備は、一七三万四二二〇kwであった。このうち鴨緑江の水豊発電所のみで六〇万kwで、その三分の一を生産した。一九四五年八月時点の発電設備は、京城・仁川・釜山だけに電灯があった韓国併合時の一〇六五kwの一六〇〇倍となった。朝鮮の電力が飛躍的に伸びたのは、その第一期というべき、赴戦江(鴨緑江の支流)の四つの発電所のうち三つが本格稼働した一九三〇年であった。この三つの発電所だけで、一九万kwの出力であった。四つあわせてニ〇万kwのエ事・建設費は五五〇〇万円(一九二六~三ニ年)で、むろん日本の私企業が負担した。第二期の飛躍年は、同じく鴨緑江の支流の一つ、長津江で四つの発電所のうち二つが本格稼働した一九三六年であった。二つあわせて二六万kwもあった。四つの発電所全部(三三万kw)の工事・建設費は六五〇〇万円であった(注18)。

 第三の飛躍期が、一〇万kwという世界最大の発電機七つによる水豊発電所(七〇万kw)の建設と、四つの虚川江発電所(合計三四万kw、七〇〇〇万円、注18)の建設であった。虚川江のは一九四〇~四三年に、水豊のは一九四一年~四四年に稼働を開始した。水豊の最後の第七番目の発電機(一〇万kw)は一九四六年に稼働する予定だった。このほか、一九四五年八月時点で工事中の発電所が、雲峯の五〇万kwと義州の二〇万kwなど、一二ケ所・出力一四七万kwもあった。以上の発電所の多くは北朝鮮にあり、日本の敗戦のあとどうなったか、その状況は不明である。しかし、北朝鮮が日本と国交を回復するようなことがあれば、・・・・断じて日本はそのようなことはしてはならないが・・・・、日本は北朝鮮につくったダムや発電所そして厖大な送電設備について、すべての建設コストを必ず弁済させるべきである。

 朝鮮に遺した日本の私企業の水力発電所の遺産がいかに桁はずれかは、戦前日本のベスト4が、千住発電所の一二万kw、信濃川発電所の一六万五千kw、黒部川第三の八万一千kw、奥泉発電所の八万七千kw、であったことで一目瞭然である。なぜなら、朝鮮のベスト4は、世界最大級の水豊発電所の六〇(七〇)万kw、赴戦江第一発電所の一三万kw、長津江第一の一四万四千kw、虚川江第一の一四万五千kw、と総計で日本のベスト4の二倍にもなる(注18)。

 水豊ダムは、幅九〇〇m・高さ一〇六m・容積三二三万㎡という巨大ダムであった。その人工湖の表面積は三四五k㎡で琵琶湖の半分を超えた。その総貯水容量は一一六億㎥であった。工事費は一九四〇年十二月末現在で二億三七〇〇万円であった(注18)。一九四六年の第七号発電機稼働をもっての最終の建設費総額はこれをはるかに上回る額であるのはいうまでもない。日本の私企業が朝鮮に「搾取」された額は、発電所だけでもこれはどのものに及ぶ。


(注16)印貞植「朝鮮の農業機構」白楊社

(注17)朝鮮総督府「電力政策基本計画調査」上巻

(注19)「朝鮮総督府三十年史」第三巻






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