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2012年3月19日 (月)

映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」




◆ シネマイクスピアリ


 土曜日の午後、1ヶ月振りで、舞浜のIKSPIARI。

 朝からの雨にも拘わらず、大混雑。

 ここだけは、別世界のようで、一歩中へ入れば、皆さん、ニコニコ顔。

 シネコンのチケット売り場も、お子たちで、ワイワイガヤガヤ。

 彼らのお目当ては、どうやら、「ドラエモン」か「長ぐつをはいたネコ」のようでした。


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 オジサンのお目当ては、Meryl Streep が今年のアカデミー賞主演女優賞を獲得した「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」。

 お子様連れは、ドラエモンかネコ、大人のカップルは、三丁目の夕日に流れたようで、サッチャー組は、本日は、楽勝でした。



◆ The Iron Lady


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 Meryl Streep、外国の女優さんでは、オジサンの一番好きな女優さんです。

 二番目は、マリリン・モンロー \(^O^)/

 彼女に興味を魅かれたのは、Sophie's Choice から。


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 日本ではこういうタイプの女優さん、なかなか、見当たりませんねぇ。

 杉村春子?ちょっと、ちがう・・・・。

 男優なら、志村喬さんですかね〜。

 Meryl Streep、クセがあり過ぎるので、好き嫌いは明確に別れると思いますが、演技力は抜群です。

 かくして、The Iron Lady で、2度目のアカデミー賞主演女優賞を獲得。


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 どうです、この自信満々の表情。

 オジサンは、彼女のこういう強い面、大好きです。

 女ジャック・ニコルソン?

 ですから、サッチャー役は、ピッタリ。安心して見てられました。

 作品賞も獲得出来ればいうことなかったんですが、伝記物の類いですから、仕方がありません。

 彼女、1949年生れなんですんね。うぅ〜ん、実に、若い。


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 あっという間の105分でした。

 終演後、明るくなって会場を見渡したところ、観客はざっと50名ぐらいで、男性は5名もいなかったような。

 30代らしき女性が多いのには驚きました。

 みんな、保守ドル?


 
 Margaret Thatcher著 「サッチャー回顧録」1993年日経新聞社刊から



 
< 慣習に勝る施策はなし >


 個人と社会 

 一九八六年から八九年にかけて起こった繁栄の大波には、しっかりした基盤があるものも持続性を欠くものもあったが、一つの逆説的な効果をもたらした。

 左翼は、政府をけなすことも、自由企業制資本主義は雇用を創出できず生活水準向上にも失敗したと非難することもできなくなり、関心を非経済分野の問題に移すようになったのである。

 国家が経済的進歩の原動力だという考えはすでに信用されなくなっており、ましてや共産主義の失敗はあまねく知れ渡っていた。

 しかし資本主義の繁栄の代価は高くつきすぎるのではないか。その繁栄は著しく攻撃的な物質主義、交通渋滞、あるいは環境汚染という結果を招いているのではないか。サッチャーのイギリスでやっていくのに必要な生き方では弱者はおとしめられ、ホームレス人口は増加し、コミュニティは崩壊するのではないか。つまり、「生活の質」は危機に瀕しているのではないか。

 このような批判はすべて誤っており、偽善的であることがわかった。

 もし社会主義が経済的成功を収めていたらこれらの批判を浴びせた連中は、双手を挙げてその成功を祝していたに違いないのだ。

 しかし社会主義は失敗してしまった。

 そしてその失敗によってもっともひどく苦しんだのは社会の貧しく弱い人々だったのだ。さらに悪いことに、社会主義は高潔なレトリックで議論を飾るにもかかわらず、現実には人間性の最悪の側面に働きかけてきたたのだ。

 文字通りに社会と家族を堕落させ、伝統的な価値をあざけり続け、独立の代わりに依存を呼びかけた。左翼がまるで古くさい保守派のように、社会の分解のまっただ中で、良識を維持するために戦えと語り始めたのは皮肉な試みであった。


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 しかしながら、このような主張は無視し得ないものでありた。

 保守党の一部は、常に左翼の社会問題についての主張と宥和しようとしてきた。私が党首となる直前には経済論議でも妥協していたのと同じことである。われわれはやっていることではほとんど社会主義者だったというのが理由である。

 このような人たちは、すべての批判に対する回答は、国家がもっと出費し介入することだと考えていたのだ。問題によっては、確かに国家が介入すべきものもあった。たとえば堕落した両親から受けるさしせまった危険から子供たちを保護することなどである。

 国家は法を支え、確実に犯罪者を処罰しなければならない。

 だが私が深く憂慮したのは、警察官を増員し刑務所を増やしたにもかかわらず市街の暴力沙汰は減少せず、かえって増加したことだ。

 しかしながら現在の社会問題の根源的な要因は、時間を越えて続いてきた底知れぬ広がりのある昔ながらの人間の愚かさではなく、国家が介入しすぎてきたことにあるのだ。

 保守党の社会政策はそのことに気付くべきであった。

 社会は個人とコミュニティによって成り立っている。

 本来は個々人により、あるいは家族や隣近所によってうまくなされるべきことに国家が介入して判断を下し、個人やコミュニティの活動を認めず阻害したりすれば、社会問題は減少するどころか逆に増加するのだ。


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 当時私への非難の嵐の原因となったある女性誌とのインタビューでの発言の背景にあったのは私のこの信念である。その発言とは「社会などというものは存在しない」というものだった。記者は私の発言の残りの部分を載せなかった。私は次のように続けていたのだ。

 個々の男性、女性、家族は存在しています。またどんな政府も人々を通さずには何事も成し得ず、人々は自分たちのことをまず第一に考えなくてはなりません。まず自分自身に気を配り、その次に近所の世話をするということが私たちの義務なのです。

 私のいいたかったことは、当時は明解であっても後に見る影もなく歪められてしまったが、社会はそれを構成する人間と遊離した抽象的なモノではないということであった。個人や家族、近隣そして自発的な組織がつくる生きた構造だということであった。

 この意味において、私は社会に大きく期待していた。なぜなら経済的な富が増大すれば個人も自発的な組織ももっと隣人の不幸に対する責任を引き受けるべきだと思うようになると確信していたからである。

 私が誤りであるとして異議を唱えていたのは、国家を社会ととり違え、国家が最初の避難所であるとする認識に対してであった。

 人々は「社会」はこのような不幸を許してはいけないといった不平をもらすのを耳にするたびに私は、「それならあなたはそれをどうしようとするのか」と問い返した。私にとって、社会というものは言い訳ではなく、義務の源泉なのだ。

 個人は自分の行動に対して最終的に責任があるし、またそう行動しなければならないという意味において、私は個人主義者であった。しかし私は、このような個人主義と社会的責任の間にはある種の衝突があるという見方はいつも拒絶した。

 私のこの見解は、「下層階級」の増加と万事他者に依存することをよしとするような依存文化の発達についての、アメリカの保守的思想家たちによる書物によって強固なものとなった。

 無責任な行動が何らかの処罰をともなわないとすると、無責任さが多くの人にとって当たり前のことになってしまうだろう。さらに重要なことは、そのような生き方が子供たちへと伝えられ、誤った方向へと向かわせてしまうかも知れないことだ。


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 私はビクトリア時代の人たちに、多くの理由から親愛の情を抱いていた。それは当時の自発的団体や博愛団体の増大、偉大な建造物、都市への寄付金などの形で示された公共精神に敬意を表するというだけにとどまらない。私は「ビクトリア朝の価値観」、私独自の用語では「ビクトリア朝の美徳」を称賛することに不安を感じたことはない。

 なぜならこれらの美徳は決してビクトリア時代だけのものではないからだ。ビクトリア時代の人々はすでに、現在われわれが再発見している事柄について語っていたのだ。

 それは「援助に値する」貧困と「援助に値しない」貧困の区別である。

 ともに救済してしかるべきである。しかし公費の支出が依存文化を強化するだけにならないためには、両者への援助はずいぶん違った種類のものでなければならない。

 われわれの福祉国家で生じる問題は、ある程度は不可避的なものなのかも知れないが、本当に困難に陥り、そこから脱出するまでなにがしかの援助を必要とする場合と、単に動労と自己改善への意思や習慣を失ってしまっている場合との峻別を忘れてしまい、両者に同じ「援助」を施してきたことにあるのだ。

 援助の目的ばただ単に人々に半端な人生を送ることを許すことにあるのではなく、自らの規律を回復させ自尊心をも取り戻させることにあるのだ。

 私はアメリカの神学者・社会科学者マイケル・ノヴァクの著作にも感銘を受けた。彼は私が個人と社会についてずっと信じてきたことを斬新で力強い言葉で表現してくれた。

 ノヴァク氏が「民主的資本主義」と呼ぶものは単に経済システムのことではなく、道徳的かつ社会的なシステムであり、そのシステムは一連の徳を奨励し、「一人でやっていく」のではなく人々との協力に依存するものであることを強調するものだ。

 こういった重要な洞察は、依存文化の影響に関するわれわれの考えと並んで、政治の言葉で「生活の質」と呼ばれている大問題に取り組む際に知的な根拠を与えてくれたのだ。


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