« この厄介な国、中国(第6回) | トップページ | この厄介な国、中国(第8回) »

2013年8月18日 (日)

この厄介な国、中国(第7回)




 
夏休み読み切りシリーズ

 < 岡田英弘著「この厄介な国、中国」2001年ワック刊から >



 
日中の国交は二十世紀までなかった


 日本人は建国以来、真の中国に接した期間がほとんどない、と私は書いた。これはけっして文学的な比喩として述べた表現ではない。

 歴史的事実を指摘すれば、日中間に国交関係が樹立されるのは、一九一三年以降のことであり、それ以前には、ただの一度も日中間に国交関係がなかった。一八七一年に日本が日清修好条規を結んだ相手は満洲人の清朝で、中国を支配してはいたが、中国人の国ではなかった。

 つまり、日本人が中国ときちんと接触するのは二十世紀に入ってからのことであり、日本人が中国を「知る」ようになって、わずか九十年間しかたっていないということなのである。これは言うまでもなく、日英関係、日米関係よりも短い。ましてや、共産中国の成立(一九四九年)から日中国交が正常化するまでの二十三年間は、実質的には絶縁状態だったのだから、日本人が中国を知らないのは、きわめて当然のことと言わねばならない。

 日本と中国の正式な国交が二十世紀まで存在しなかったと言うと、たいていの人は「そんなな馬鹿な」という反応を見せる。たしかに日本の歴史教育では、古代の朝廷は遣唐使を通じて日本が中国と国交を持っていたと教えているのだから、そう思うのも無理はない。

 しかし、事実は違うのである。日本は建国以来、二十世紀に入るまで中国と正式に国交を持ったこともないし、持とうと思ったことすらない。

 まず遣唐使のことから説明したい。

 ご存じのように、遣唐使は六三一年から始まった。そして、菅原道真の献策により八九四年に廃止されるまで、数十回の使節が派遣された。

 さて、この二百五十年あまりの間に、日本列島においては重大な変化が起こっている。それは「倭国」から「日本」への変化であった。

 中国の記録を丁寧に検証してみればただちに分かることだが、当初の遣唐使は「倭国」からの使者であった。ところが七〇二年、つまり文武天皇の大宝二年に唐に到着した使節は「日本からの使者」と名乗ったとある。その直前の六七〇年の遣唐使までは、たしかに倭国からの使者であったから、その三十二年の間に「日本」という国家が成立したことになる。

 もちろん、倭国から日本への変化が起きたといっても、そこでクーデターが起きて政権の主体が変わったわけではない。同じ倭王の朝廷が「倭国」という名称を廃して、対外的に「日本」を名乗ることに決めたということである。

 しかし、これは単なる名称の変更というだけのことではない。この「倭国」から「日本」への変更には、重要な意味が秘められていた。それはなにかと言えば、独立国家としての「日本の誕生」であり、それは同時に、中国に対する「絶縁」を宣言しているということでもあった。




« この厄介な国、中国(第6回) | トップページ | この厄介な国、中国(第8回) »

清濁」カテゴリの記事