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2015年5月 1日 (金)

大型連休読切特集、中国大虐殺史(その1)




 
石平著「中国大虐殺史:なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年ビジネス社刊から


 第一章 大量殺人から身を起した中国共産党


 「一村一焼一殺」の恐ろしい実態



 毛沢東が率いる紅軍は、革命根拠地を拡大する中で、「行動方針」を明文化した。「一村一焼一殺、外加全没収」である。「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」という意味である。紅軍と配下の破落戸たちは喜んで、この行動方針を忠実に実行した。

 紅軍の元高級幹部だった龔楚が、殺戮と略奪の実態を書き記している。彼は紅軍から離脱して上海へ逃げ、『私と紅軍』という書物を出版した。「一村一焼一殺」の手順を紹介している。

 「われわれは未明のうちに村に近づき、まず村全体を包囲し、夜が明けるのを待つ。朝になると、事前に味方につけていた村の地痞を案内人に使って、その村の地痞たち全員を呼びつけて集合させる。彼らから村の地主の詳細な情報を得て、彼らにこれから取るべき行動の手順を教えてやる。

 家族がみな揃って朝飯をとる時間を見計らって、われわれは行動を開始する。まず地痞たちと一緒に地主の家に乱入し、家族全員をIカ所に監禁してから、すぐさま家全体の捜索を行なう。

 金銀の塊、地契(土地の所有証書)、現金の三つがまず確保の対象となる。それらが見つからない場合、家の主を別室に連れ出し、訊問して、所在を聞き出すのである。吐かないときには当然、激しい拷問をする。それでも口を閉じている場合、『吐かなければお前の家族を殺すぞ』と脅しをかける。それでたいてい、目当てのものはすべて手に入る。金銀の塊と現金は、われわれ紅軍のものとなる。それ以外の家財道具は、協力してくれた地痞たちに呉れてやるのがしきたりである。

 地主の家屋だけは、われわれ紅軍もどこへ持っていくこともできない。分けて配分することもできないため、燃やしてしまう。

 あとは土地の処分である。村人全員を村の中心の広場に集めて、地主の家から持ち出した地契をすべて燃やしてしまう。それから、土地は全部お前たちにただでやるから、あとはわれわれ紅軍にしっかりと地租(年貢)を納めるようにいう。棚からぼた餅の村人たちは、歓声を上げて大喜びするのがいつもの光景である。その際、もしわれわれ紅軍に兵員補給の必要があれば、土地を配分する代わりに、村民たちに壮丁(健康な若い男子)を兵隊に出すよう要求する場合もある。

 最後に、盛大な祭りが残されている。監禁している地主を広場に引きずり出して、村人に裁判を開かせる。その際、事前の言い合わせにしたがって、地痞たちの何人かが前に出て、涙を流してこの地主の平素の罪状を一つひとつ憤りを込めて告訴する。大半はおそらくでまかせの作り話だろうが、主催者のわれわれ紅軍は当然、真偽を問いただすような余計な真似はしない。罪名と罪状が備わればそれで良いのである。

 そして、いよいよ『その時』がやってくる。

 われわれの司会者は大声を出して、

 『このような罪深い土豪劣紳をどうしたら良いか』

 と村民に訊く。地痞たちはいっせいに拳を挙げて、

 『殺すのだ!殺すのだ!殺して下さい!』

 と全身の力を振り絞って叫ぶ。司会者はここでもう一度大声で言う。

 『それではもう一度皆に訊く。こいつは殺すべきか』

 一瞬の沈黙のあと、今度はわれわれ紅軍兵士と例の地痞たち、そしてその場にいる村人全員がいっせいに拳を挙げて、

 『殺せ!殺せ!』

 と、絶叫する。

 それで地主の運命は決まる。隊長の命令で、兵士1名が前に出て、即座に処刑を行なう。遠くからは射撃しない。万が一外れたら、貴重な弾薬の浪費になるからだ。処刑方法は決まって、地主を地面に跪かせライフル銃の銃口を上から斜めに頭に突きつけて、1発で片付ける。パンという銃声がすると、地主の頭の半分が目の前で吹き飛ばされ、白い脳みそと赤い血が混ざり合って広場一面に散らばる。これで一件落着。1日の任務が終了するのである。もちろん以後、この村がわが紅区(赤い地域)の一部となり、地痞たちもそのまま村の幹部となるのは、いうまでもないことである」

 「一村一焼一般」の農村革命の行動方針は、次々に実施され、共産党紅軍の「革命根拠地」は徐々に拡大されていった。

 1933年には共産党紅軍が開拓した根拠地、つまり「中華ソヴィェト共和国臨時政府」の支配地域は、3600万人の人口を有する広大な地域に広がったと記録されている。

 1928年からわずか5年での「成果」である。

 そしてこの5年間、「一村一焼一殺」で殺された地主、素封家の総数は、何と10万人に上ったという。後に紅軍が国民党政府軍に敗れ、「革命根拠地」を全部放棄して逃げ出したあとの調査に基づく。

 共産党紅軍が最盛期に支配した地域の住民は3600万人だから、住民の360人に1人が般された計算になる。当時、中国農村の村落の平均住民数はたいてい300人程度であったので、「10万人処刑」という数字は、ちょうど「一村一殺」と釣り合う。やはり真実と考えられる。

 要するに、先ほど元紅軍幹部が回顧した残酷極まりない略奪と殺戮が、5年間に10万回、行なわれたのである。「パンという銃声がすると、頭の半分が目の前で吹き飛ばされる」といった目を覆いたくなる血まみれの殺人が、共産党と紅軍の手によって10万回も実行されたのだ。革命とは、何と暴虐なものか。

 ちなみに、「一つの村で、一人の土豪を殺す」は、あくまで農村地域で施行された「行動方針」なので、都市を占領した場合、話は違ってくる。

 たとえば、1930年9月に、紅軍は江西省の吉安という都市を陥落させ、45日間占領したことがある。その間、彼らは何と、1万人以上の市民たちを虐殺したと記録されている。町中心部の建物の壁に貼られる死刑布告の貼り紙が、毎日数回も貼り替えられ、処刑される者の名前で埋め尽くされたという。

 中国共産党による暴力革命の歩みは、初期段階から、まさに大量殺人の歴史なのである。



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