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2015年5月 2日 (土)

大型連休読切特集、中国大虐殺史(その2)




 石平著「中国大虐殺史:なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年ビジネス社刊から


 
第二章 自国民への大屠殺を楽しむ共産党政府


 200万人の命を奪った「土地改革運動」



 1949年、毛沢東が率いる中国共産党軍は、蒋介石の国民政府軍との内戦に勝利し、ついに天下を取った。10月、現在の中華人民共和国が、稀代の殺戮者・毛沢東の手によって樹立された。

 建国までのプロセスでは、共産党による大量虐殺が絶えなかった。新しい革命根拠地を開拓していく度に、「一村一焼一殺」を丹念に実行したことはすでに記した。国民党政府軍を相手とする内戦にしても、共産党軍のやり方はきわめて残酷だった。

 中国の長い歴史では、天下取りのための内戦で残酷な大量殺戮が付きものだったので、一概に中国共産党だけを怪しからんと非難できないかもしれない。ただ、歴代王朝の場合、中国大陸を制覇するために戦争では虐殺を辞さなかったが、いったん天下をとって自前の王朝を樹立すると、「安土撫民」の政策に転じるのが通例であった。

 しかし中国共産党の場合は違っていた。天下をとって全国政権を樹立してからこそ、治世下の自国民に対して、思うぞんぶん大虐殺を断行していった。

 政権樹立の翌1950年初頭から、中国共産党政権はさっそく全国規模の「土地改革」を実行した。それは、今まで「革命根拠地」で行なってきた、地主、素封家たちを対象とする「一村一焼一殺」を、全国的に展開していくことであった。全国の村々の農民を総動員して地主たちを吊るし上げ、土地その他の全財産を奪ったのである。

 地主たちから没収した土地以外の財産はすべて政権側の懐に入り、新しく成立した中華人民共和国の国家財政を支える重要な財源となった。土地はすべて農民に配分されたが、もちろん中国全土の農民は、共産党政権にたいし「公権」と称する年貢を納める義務を負わされた。

 ただし今度は、地主たちの家屋を焼き払わなかった。家屋はすべて、共産党政権の農村幹部たちの「公邸」、各村の共産党支部の「弁公室」となった。

 共産党政権の名誉のために言っておくと、すべてを奪われた地主本人らにたいしては、「一村一殺」がそれほど厳密に実行されなかった。当時、地主を殺すかどうかは各村の「土地改革委員会主任」の裁量に委ねられていた。一部の良識のある委員会の幹部たちは、奪えるだけのものは奪いつつも、無意味な殺戮だけは避けたのである。共産党員にも、良識をいくらか残した人が皆無ではなかった。

 それでも、全国で吊るし上げられた六百数十万人の地主のうち、200万人程度は確実に銃殺された。「革命根拠地」開拓時代から共産党軍の協力者だった「地痞流氓」の多くが、出世して立派な「農村幹部」となっていた。彼らの多くは「土地革命のプロ」として、共産党政権が新しく支配した地域に派遣され、土地改革の指導に当たっていた。

 指導に当たった地域や村では、以前のような「一村一殺」がそのまま再現され、殺戮の嵐がふたたび吹き荒れた。結果、全国で約200万人の地主が命を落としたのである。

 これは、中国共産党政権が天下をとってから、自国民にたいし行なった最初の大量虐殺である。


 71万人を即時処刑した「鎮反」という名の大虐殺


 翌1951年になると、毛沢東からの強制的な殺人命令により、全国規模の大虐殺がまたもや始まった。「反革命分子鎮圧運動」である。共産党政権はこの1年間で、71万人の「反革命分子」と称される人々を人民裁判にかけて銃殺してしまった。

 1951年1月30日、党・軍・国家の権力を一身に集めた独裁者の毛沢東は、全党、全軍にたいし、「堂々と反革命分子を殺せ」と明確な殺戮命令を下した。それを受けた党中央は2月10日に決議を行ない、全国における「反革命分子鎮圧運動」の展開を決定した。

 「鎮圧すべき反革命分子」として指定されたのは、「匪賊、悪党、スパイ、反動的党派と団体主要幹部、反動的セクト組織のリーダー」と称される人々であった。

 毛沢東はさらに、人口に応じて殺戮のノルマを全国に課した。
 
 「全国の農村地帯で殺すべき反革命分子は、人口の1000分の1程度とすべきだが」、「都会での比率は、人口の1000分の1を超えなければならない」

 つまり都会では、1000人中、1人以上を殺さなければならないという。

 毛沢東がどんな根拠に基づきこうした比率を算出したかは不明だが、とにかく彼は、「それ以上、人を殺してはいけない」というのと逆に、「これ以上の人を殺さなければならない」という前代未聞の殺人ノルマを、全国の党組織と公安機関に課したのである。

 独裁的な共産党政権で最高指導者からノルマが突きつけられると、全国の党・軍・公安の組織はいっせいにフル回転して殺人マシーンと化した。毛沢東の号令一つで、大量虐殺の嵐が全国に吹き荒れたのである。

 手法はこうである。まず、各地の共産党組織が動員大会を開き、反革命分子を告発するよう群衆に呼びかける。そして、群衆からの告発に基づくという形をとって、共産党政権が事前に目をつけた反革命分子たちをいっせいに逮捕する。即座に人民裁判にかけ、即座に銃殺する。

 1998年に中国本土で出版された『鎮反運動実録』(金城出版社)という書物で、「反革命分子鎮圧運動」の凄まじさを垣間見ることができる。

 首都北京の場合、動員大会がなんと626回も開かれ、参加人数は330万人以上に達したという。

 「(1951年)3月24日、北京市は1万5000人以上参加する人民代表連合裁判大会を開催し、反革命分子による破壊活動の証拠を提示し、被害者による血と涙の告発を行った。大会の模様は、ラジオを通じて全国に生中継された。翌日公安当局は、告発された399名の反革命主犯をことごとく逮捕して、彼らがかつて悪事を働いた各区域へと連行した。各区域の人民法廷はさっそく反革命主犯たちの罪状を公表した上で、その場で判決を言い渡し、直ちに処刑したのである」

 この記述を少し吟味してみれば、「裁判」がまったくの茶番であることがよくわかる。人民裁判の実施にあたって、いちおう「反革命分子による破壊活動の証拠提示」や「被害者による血と涙の告発」が行なわれている。3月24日の「人民代表連合裁判大会」では、1日で399名の「反革命分子」にたいする「証拠提示」や「告発」があったという。しかしその際、たとえ朝から晩まで裁判がずっと行なわれたにしても、一人の「反革命分子」の裁判に費やせる時間はせいぜい2分程度にすぎない。2分間で、いったい何の証拠を提示し、何の告発を行なうというのか。茶番以外の何ものでもない。

 要は、「破壊活動の証拠提示」も「血と涙の告発」も、単なる形式を整えるための儀式にすぎない。殺す人間の数とメンバーは最初から決められていて、それに従って「粛々」と儀式が進んでいっただけなのだ。何しろ、毛沢東主席からノルマを課されているから、それだけの人数を殺さなければならないのである。

 3月の処刑からわずか2ヵ月後の5月22日、同じく北京で、同様の手法によって、421名の反革命分子銃殺され、584名の者は無期懲役を含めた懲役に処された。

 そして9月6日には北京で3回目の大量処刑が実行され、今度は318名の反革命分子が命を落とした。

 地方の例も見てみよう。

 たとえば国際的な大都会上海では、1951年4月30日1度に585名の反革命分子が銃殺された。わずか1カ月後の5月31日には、405名の処刑が行なわれた。上海の共産党政府はこれで満足せず、半月後の6月15日、またもや380名の頭に「人民の怒りを込めた」銃弾を打ち込んだ。つまり、4月30日からほぼ1カ月半の間に、上海という1つの都市だけで、1370名が殺された。

 上海市人民政府はさらに、群衆たちから寄せられた3万3000通の手紙の告発に基づき、1951年8月までに何と2万9000人の反革命分子を検挙して牢獄に入れたという。

 北京近くの港湾都市の天津では、1951年の4月1日、7月1日と行なった2回の「公審大会」と呼ばれる人民裁判で、八百数十名の反革命分子たちの命を奪った。

 内陸の甘粛省では、「1951年1月26日の晩から27日にかけて、全省を任務地とする人民解放軍、各地方工作隊と公安機開がいっせいに行動を起こし、匪賊の主犯や悪党など9000人を逮捕した。大多数は後に処刑され、蘭州という一つの市だけでも、1000人近くが銃殺された」という。

 今では「改革・開放」の最前線として脚光を浴びる沿海地域の広東省も、他省に負けていない。次の記録を見るとわかる。

 「1951年1月23日の午後、中国共産党華南局第一書記・広東軍区司司令官葉剣英の陣頭指揮のもと、人民解放軍第二軍、四十四軍、四十五軍は、各地公安当局の協力を得て、広東省全域で大規模な逮捕作戦を展開した。各地方から軍区へ報告された数字によると、一日で、匪賊の頭、悪党、スパイなど1万1000人が逮捕された。夜には第1回目の処刑として、1700名が広州および各地方都市へ連行され、そのまま銃殺された。

 それからの3日問、広東省だけで2回にわたり、5000人近くが銃殺された。

 広東の実例からも見られるように、3日問という短時間内で1万人規模の人々を突如逮捕し、5000人を即座に処刑してしまうのは、まさに反革命分子鎮圧運動の典型的なやり方であった」

 以上は、共産党が支配する中国国内で出版された書物に記述された、鎮圧運動の実態である。それでは、この大量殺戮の嵐のなか、いったいどれだけの人たちが命を落としたのか。実はこの数字も、中国国内の文献から出ている。中国共産党の「中共党史資料」から出版された『中国共産党執政四十年(一九四九~一九八九)』に、中国政府による公式発表の数字が記載されている。それによると、「鎮圧反革命分子運動」で銃殺された人数は、71万人に上るという。

 当の中国政府は、むしろ「反革命分子鎮圧」の輝かしい「成果」として、誇らしげに発表しているのである。しかし、それはどう考えても、恥じるべき、世紀の大虐殺ではないだろうか。

 共産党政権の公式見解では、この鎮圧運動で処刑された人たちは、「匪賊、悪党、スパイ、反動的党派・団体の主要幹部、反動的セクト組織のリーダー」のいずれかに属する、正真正銘の「反革命分子」であるという。しかしそれは、まったくのウソである。

 たとえば「匪賊」という罪名は、中国語で、「武装をして、山奥や密林に隠れた拠点を持ち、継続的な略奪活動を行なう者」を指す。

 しかし、鎮圧運動で「匪賊」とされた人々は大多数、群衆からの告発で一夜にして簡単に逮捕されている。北京では、「匪賊」たちが告発される「裁判大会」がラジオ中継され、翌日になって逮捕している。家の中でじっとして、逮捕されるのを大人しく持つような「匪賊」が存在するとは、馬鹿げた話である。

 「スパイ」という罪名もそうである。一般人に紛れて秘密活動を行なうのがスパイである。安易に識別、発見されないからこそ、スパイとして活動できるのである。

 だが、鎮圧運動では、多くの「スパイ」たちは一般群衆の告発により、すぐさまスパイと認定され、即座に逮捕されている,

 群衆からの告発だけで、誰がスパイか果たしてわかるのか。一般群衆に簡単に見破られるスパイが、果たして本物のスパイなのか。世界最強といわれるアメリカのCIAやFBIにしても、一人のスパイを捜査するのに相当の労力と時間を必要とするはずである。―度の動員大会で群衆の告発一つで直ちに「発覚」されるようなスパイとは、いったいどんなスパイなのか。

 「反動的党派・団体の主要幹部」や「反動的セクト組織のリーダー」といった罪名にしても、あやふやである。

 1949年に中国共産党政権が成立する直前、戦いに敗れた蒋介石は、国民政府の高官や残兵を率いて台湾に逃げていった。実はそのときに、「反動的党派・団体の主要幹部」や、共産党と不倶戴天の敵対関係にある本物の「反革命分子」は、たいてい蒋介石に追従して台湾に逃げていたのである。

 台湾へ行き損なった者にしても、香港や東南アジアヘ逃げるのが通例であった。殺人好きな共産党の「勇名」が全国に轟いているなかで、共産党政権の樹立を待って国内に留まるような「反革命分子」はきわめて稀であった。とにかく、数十万人単位の「反革命分子」が家の中に静かに座って、共産党政権に逮捕、処刑されるのを大人しく待つなどという馬鹿なことは、絶対ありえないのである。

 要するに、鎮圧運動で「反革命分子」と決めつけられ、命を落とした71万人の大多数は、無実なのだ。彼らのほとんどは何の罪も犯していない。まさか自分が共産党政権の手で逮捕されるとは夢にも思わないし、たとえ逮捕された後でも、銃殺されるとは思いもよらながった。だからこそ、彼らのほとんどは逃げもせず、あたかも自分の逮捕に協力するかのように「自宅待機」して、一歩も動かなかったのだ。

 しかし、何の罪もない彼らは、まったく訳のわからないうちに突如逮捕され、銃殺されてしまった。これを大虐殺と呼ばず、いったい何と呼ぼう。政権樹立後の平時に、中国共産党政権が、自国民71万人をまったくの冤罪で虐殺したことは、異議を差し挟む余地のない歴史的事実である。



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