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2015年5月 3日 (日)

大型連休読切特集、中国大虐殺史(その3)




 
石平著「中国大虐殺史:なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年ビジネス社刊から


 第三章「殺人者の楽園」を作り出した文革時代


 打ち殺されていく中学校の先生たち



 一例として、北京市の西城区にある北京第3女子中学校での出来事を見てみよう。中国では、「中学校」とは日本の中学校と高校の両方を合わせたものである。いま日本で流行りの中高一貫校を先取りしたものといえるかもしれない。この「北京第3女子中学校」は現在、男女共学で、北京第159中学校となっている。

 1966年8月、文革が開始して早々、第3女子中学校の造反派と紅衛兵たちはさっそく「文革委員会」を設立し、「反動的教師」たちにたいする「専政」の実行機関となった。この学校の紅衛兵が、全員女子であることはいうまでもない。

 「文革委員会」は学校の責任者や教師ら14名を「反動分子」と認定して全員を集め、学校内の倉庫の一室に監禁した。「妖怪変化(牛鬼蛇神)」と称された彼女らにたいする紅衛兵の残酷な迫害は、そこから始まるのである。

 毎朝6時に、「妖怪変化」たちは叩き起こされる。まず校庭に一列に並んで、腰を90度に折るる形で平身低頭の姿勢で2時間以上も立たされる。その「反省の時間」の途中で姿勢を崩す人がいれば、直ちに殴る対象となる。紅衛兵たちはもちろん、拳で殴るような生ぬるい殴り方はしない。軍事訓練用の木刀や革のベルトで殴るのだ。

 「反省の時間」の後には、「労改=労働による思想改造」と称される重労働の時間がくる。

 「妖怪変化」たちは1日、10時間以上もの重労働を強いられる。本来、学校のなかには重労働の仕事がそれほど多くあるわけではない。だが、紅衛兵たちはわざと、「妖怪変化」たちのために「仕事」を作る。たとえば、校庭の一角の地面に大きな穴を掘らせ、また埋めさせるといった具合である。もちろん重労働の途中で休んではいけない。歩く時に頭を上げることも許されない。重いものを運ぶ時は小走りしなければならない。「妖怪変化」は、このような過酷な1日を過ごさなければならないのである。

 そして夜になると、紅衛兵たちの「楽しみ」の時間がやってくる。彼らは学校のなかで「審査室」と称する一室を設けて、「妖怪変化」を一人ずつ連れ出して、徹夜の訊問とリンチを延々と行なっていく。

 訊問といっても別に何かを本気で訊き出そうというわけではない。殴るための「準備段階」にすぎないのだ。たとえば紅衛兵たちがよく訊く質問の一つに、「お前は毛主席を恨んでいるのか」というものがある。

 その際、「妖怪変化」は最初は当然、「いいえ、恨んでいません」と応えるが、紅衛兵たちは直ちに逆上して、「うそつけ!お前のような反動分子が毛主席を恨んでいないわけがない。本当のことをいえ!」と、いっせいに殴りつける。そして耐えられずに、「はい、恨んでいます。申し訳ありません」などと言ってしまおうものなら、いっそう激しく殴られる。「敬愛する毛主席を恨んでいる奴」を徹底的に成敗するのが紅衛兵たちの仕事だからである。

 殴り方も生半可ではない。革のベルトを一度水に浸けてから全身を殴る。革の靴の底で顔を殴る。木刀を振りかぎして両足を叩く。「妖怪変化」たちの鼻と口から血が流れ出し、顔全体が血の色になり青くなりして饅頭のように膨らんでいく。苦痛の悲鳴が夜中じゅう鳴り響くのである。

 こうしたなかで、第3女子中学校の沙萍という女校長は、3夜連続の「審査」を受けた後、1966年8月22日に打ち殺された。彼女が息を引き取った場所は校内のトイレである。傷だらけの遺体は半裸にされ、髪の毛はほとんど抜かれていた。口は汚物で塞がれていた。

 彼女の遺体は翌日に火葬場へ送られ荼毘に付されたが、遺族にはいっさい知らされなかった。数日後、紅衛兵たちが28元の「火葬代」を請求した時、家族は初めて、沙萍校長の死を知った。

 ほぽ同時期に、「妖怪変化」にされた数学教師の張岩梅先生は首吊り自殺し、1カ月後、音楽教師の王眉先生も打ち殺された。1966年8月からの2ヵ月間、第3女子中学校で迫害を受けて命を失った女教師は3名だった。

 もちろんこうしたことは、第3女子中学校だけではなかった。私自身が収集した資料だけでも、1966年8月に、北京市内の次の学校で「迫害致死」となった教師たちが確認されている。

 8月5日、北京師範大学付属女子中学校則校長の卞仲耕先生は打ち殺された。

 8月17日、北京第101中学校美術教師の陳葆昆先生は打ち殺された。

 8月19口、北京外国語学校国文教師の張輔仁先生は打ち殺された。

 8月20目未明、北京官武区梁家園小学校校長の王慶萍先生が投身自殺。

 8月22日、北京第8中学校の華錦也先生は打ち殺された。

 8月25日、北京師範大学第2付属中学校国文教師の姜培良先生は打ち殺された。
 
 8月26日、北京第15中学校校長を務める栄光葵先生は打ち殺された。清華大学付属中学校物理教師の劉樹華先生が煙突から投身自殺。北京第26中学校校長の高万春先生か首つり自殺。

 8月27日、北京寛街小学校の校長先生である郭文玉先生と教務主任の呂貞先先生は、同じ日に打ち殺された。

 以上は、北京の一部の中学校、小学校における「迫害致死」の一端を示す資料である。

 北京全体、あるいは上海市全体で、文革の10年間にわたって「迫害致死」になった教師の数はどれくらいあったのだろうか。そして中国全体で、陰湿にして残忍な迫害によって命を落とした教師はどれほどいたのだろうか。
 
 私がかつて目にした未公開資料によると、文革の10年間、大学、中学校、小学校の教師や研究機関に勤める研究者を含めた「知識分子」と呼ばれる人々のなかで、「迫害致死」となった人の数は少なくとも60万人以上に上ったという。信憑性のほどは不明であるが、一つの参考数字にはなるだろう。

 とにかく、全身に墨を塗られて1週間以上のリンチを受けた後に自殺した復旦大学の王明如教授や、汚物で口を塞がれた状態で打ち殺された北京第3女子中学校の沙萍先生の場合と同じように、文革中に阿鼻叫喚の肉体リンチと残忍非道な精神的蹂躙のなかで命を奪われた人々の数が数十万人規模であることは、歴史的事実である。


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