« 大型連休読切特集、中国大虐殺史(その3) | トップページ | 大型連休読切特集、中国大虐殺史(その5) »

2015年5月 4日 (月)

大型連休読切特集、中国大虐殺史(その4)




 
石平著「中国大虐殺史:なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年ビジネス社刊から


 第五章 中国史上の戦慄すべき無差別屠殺


 太平天国の乱とそれこそ本物の「南京大虐殺」



 「屠殺」といえば、実は中国の南京で、確かに大虐殺が起きたことがある。1864年7月、太平天国政権の首都となった南京(天京)が、清朝軍の手で落城した時のことである。

 太平天国とは、清王朝の末期、科挙に落第した洪秀全という貧乏書生を教祖とするカルト教団が、反乱を起こして作った地方政権である。1850年7月、教祖・洪秀全が率いる「拝上帝会」は広西省の桂平県で兵を挙げ、流民たちを吸収しながら北へと進軍した。鎮圧に来た清朝軍を次々と打ち彼り、南京、武漢を中心とする広大な地域を支配下においた。

 1853年、彼らは南京を陥落させた後に「太平天国」と称する自前の政権を樹立し、南京を「天京」に改称したうえで首都にした。教祖の洪秀全白身は「天王」と称し、いちおう王様となった。そして、「天京」がふたたび清王朝の軍によって取り戻されるまでの11年間、太平天国と清王朝との間では一進一退の内戦が1日も中断されることなく繰り広げられ、世にいう「太平天国の乱」が南中国のほぽ全土において展開された。

 この内乱は、多くの大量殺戮を生み出した。

 広西省で蜂起してから南京へ向かう進軍の途中、あるいは南京を中心とする自らの支配地域を開拓していくなかで、太平天国軍は後世の毛沢東たちがやったような「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた。被害がとくに酷かった地域は、ちょうど広西省と隣接する湖南省であった。太平天国軍は南京周辺へ進軍するのに、まず湖南省を経由したからである。

 歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において「10の村の中の7、8の村が襲撃された。いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々はことごとく皆殺しにされた。屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。太平天国軍にとって、湖南省とは、天下取りにいく途中の草刈り場であった。

 しかし、湖南での殺戮は結局、太平天国白身の滅亡を招く原因を作った。太平天国軍の「草刈り」の後、湖南の生き残りの地主や郷紳たちは一丸となって、親族や同友たちの仇を打つ決意をした。そこに現れたのが曾国藩である。曾は湖南省から科挙試験に合格して中央官僚になった人物であるが、太平天国の乱が大事になってくると、朝廷からのお墨付きを得て、急濾古里の湖南省に帰って自前の軍隊を作り、太平天国の殲滅を自らの任務とした。湖南省の略称は「湘」という字なので、曾国藩の部隊は「湘軍」と称された。以来、湘軍はずっと、対太平天国作戦の主力部隊となった。

 そして、太平大国軍による「湖南草刈り」の13年後の1864年、太平天国の「首都」である南京(天京)に攻め入り、歴史に残る大虐殺を断行したのは、まさしく曾国藩の湘軍である。

 後に「天京屠殺」と称されるこの大虐殺の実態はどういうものだったのか。

 大京を落城させた後に湘軍がとった行動について、曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

 「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、街全体をいくつかのブロックにわけて包囲したうえ、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました。3日間にわたる掃蕩作戦の結果、賊軍10万人あまりを処刑しました」

 要するに曾国藩は、南京城内における「賊軍10万人あまり処刑」をみずからの功績として朝廷に報告したわけである。

 しかし、天京陥落の前に、太平天国軍の大部隊は「天王」洪秀全の後を継いだ幼い「天王」を擁して包囲網を突破、城外へ出た。幼い「天王」と太平天国軍の主な指揮官のほとんどが、むしろ天京から離れたところで捕まえられて殺されたことは歴史の事実である。つまり、陥落直前の天京は、太平天国軍にすでに放棄されていたはずである。

 だとすれば、曾国藩の言うように、天京が落城した後に「賊軍10万人あまり」が依然として城内に隠れていたとは考えがたい。多くの研究の成果によると、天京が陥落した当時、城内に残された太平天国軍の残留部隊は、わずか1万人あまりであったという。

 つまり、曾国藩の湘軍が行なった「賊軍10万余人の処刑」の大半はむしろ、一般の住民にたいする虐殺なのである。

 実際、曾国藩の死後、幕僚の一人である趙烈文は『能静居士日記』の中で、南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している。

 「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、手当たり次第斬り捨てられてしまった」

 この記述からも分かるように、湘軍の兵卒たちは、「賊軍」というよりも、むしろ老人や子供、そして女たちを主なターゲットにして残酷な虐殺を行なったのである。

 私の手元には、当時の虐殺にかんするもう一つの証言がある。湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

 「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、普段は野菜売り場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。

 朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。彼女たちをその場で凌辱した後に、周りで見物している町の破落戸たちの手に渡して輪姦させるのである。その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。

 それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、用意された容器に入れられるのである。

 次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる。しかし私には、そこまでの殺しの場面をここで語る勇気はもはやない。とにかくそれは、私が生まれて以来目撃した数多くの際どい光景の中でももっとも恐ろしいものであった」

 以上が「天京屠城」の目撃証言である。現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが歴史学上の定説となっている。これこそが、中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。

 「天京屠殺」には、太平天国が湖南で行なった「一村一殺」の殺戮が結果的に南京での大虐殺を生んだ、という歴史の因縁が見られる。憎しみがさらなる憎しみを生み、殺戮がさらなる殺戮を呼ぶというのは、中国史上の一つの法則といえるかもしれない。



« 大型連休読切特集、中国大虐殺史(その3) | トップページ | 大型連休読切特集、中国大虐殺史(その5) »

清濁」カテゴリの記事