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2015年5月 5日 (火)

大型連休読切特集、中国大虐殺史(その5)




 
石平著「中国大虐殺史:なぜ中国人は人殺しが好きなのか」2007年ビジネス社刊から


 第五章 中国史上の戦慄すべき無差別屠殺


 天安門事件、わずか18年前の「北京虐殺」



 本書の最後で取り上げなければならないもう一つの無差別虐殺は、今から18年前の1989年6月、中華人民共和国の首都・北京で起きた「血の日曜日」、天安門事件である。

 1989年4月、北京を中心とする中国各地で大学生たちは政治の改革や、官僚腐敗の厳罰などを訴えて、嵐のごとく民主化運動をいっせいに起した。それにたいして、中国共産党政権は戦車や正規軍部隊を北京市内に派遣し、6月3日夜から4日の朝方にかけて、天安門広場周辺で抗議活動をしている大学生へ武力弾圧を始めた。戦車が青年たちの体を踏み潰し、機関銃を持つ兵士が学生や市民に向けて乱射し、大勢の人々が無差別に殺された。

 私にとって、この事件のことは単なる歴史書のなかの出来事ではない。1980年代を通して多くの仲間たちと共に中国の民主化運動に身を投じた一人として、私自身もある意味で、当事者の一人である。当時、すでに日本に留学していた私は難を逃れることができたが、私と面識のある数名の同志たちは、まさにこの「北京虐殺」においてかけがえのない命を奪われた。

 実を言うと、彼たちへの弔いの意味を込めて、または自分たちの青春時代の一つの総括として、いつの日にか、天安門事件の全貌を自分なりの視点から描き出す書物を作るつもりである。そのために、今はさまざまな資料の収集に努めている。

 今回は紙幅の制約もあって、手元にある一つの資料を紹介しながら、この前代未聞の「北京虐殺」の一端を見てみることとしよう。これはまた、私から、わが亡き同志たちに捧げる鎮魂歌である。

 天安門事件で殺された人々のなかに、袁力という若者がいた。年齢は私より1年半上で、1960年7月7日の生まれである。当時、袁力は北方交通大学修士課程を卒業して、国家電子工業省所属の自動化研究所に勤めていた。

 彼が殺されたのは、北京市内の木犀地という場所で、天安門広場に通じるメイン・ストリート・長安街の交差点の一つだった。後に、袁力の父親である袁可志さんと母親の李雪文さんは、自分たちの息子が殺される前後の経緯を記載した手記を連名で公表した。ここでは、手記の内容に基づき一部終始を見てみよう。

 この年の4月下旬に民主化運動が勃発した後も、仕事に没頭していた袁力は、デモなどの抗議行動にそれほど積極的に参加しなかった。だが、同時代に生きる多くの若者たちと同様、彼も当然運動の展開を熱心に支持し、行く末に多大な関心をもっていた。

 毎日の仕事から帰宅すると、彼はさっさと夕飯を済まし、自転車で近所の中国人民大学へ行き、そこで民主運動の新しい動向や関連ニュースを聞き出すのである。そして夜遅くにふたたび家に帰ると、両親や弟を起こして、自分が聞いてきたことを報告しながら、運動の行く末や国の将来について自分の意見を熱っぽく語り、家族と論争することもあった。

 5月19日、中国政府はとうとう北京において戒厳令を敷く事態になった。その時から、学生運動にたいする軍の武力鎮圧が現実昧を帯びてきたが、袁力は頑としてそれを信じなかった。彼は「人民解放軍は人民に銃口を向けるようなことは絶対ない」と断言したという。

 そして、6月3日の晩、悲劇の秋がやってきた。その日、袁力は友達と一緒に一日中出かけた。人民解放軍の戒厳部隊がすでに北京市外に追っていたので、袁力らは市内への入り口の一つである「公主墳」という交差点へ行き、やってくる解放軍先頭部隊にたいして宣伝活動を行ない、北京から撤退するよう説得しようとした。しかし日が暮れても先頭部隊がなかなか現れなかったので、夜の9時頃に袁力はいったん帰宅した。一晩休んでから、翌日に引き続き、人民解放軍を説得しにいくつもりであった。

 その時であった。夜11時半頃、袁力の家の近くにある木犀地という長安街の交差点付近で、爆竹のような銃声が作製するのが聞こえた。袁力はまっすぐに家から飛び出し、玄関の外に置いてある自転車に乗ろうした。彼の後ろについて飛び出してきた母親の李雪文さんは力いっぱい袁力の自転車を止めて、「やめなさい。解放軍はもう発砲しているのよ。危険だよ。止めなさい」と、彼の外出を阻もうとした。しかし袁力は、「こんな時に何を言っているんだ。家でじっとなんて、できるわけないだろう」と険しい表情で怒り出し、気でも狂ったかのように自転車を母親の手から奪おうとした。そして、母親の手が緩まった瞬間、彼の体はすでに自転車の上に跨がり、あっという間に闇の中に消え去ったのである。

 それは、母親の李雪文さんが袁力の姿を見た最後であった。その晩、両親は一睡もせず帰宅を待ったが、6月4日の朝になっても、袁力の姿はいっさい現れなかった。両親は「何かあった」と思わざるをえなかった。

 両親はさっそく、北京市内の親戚にも声をかけて、一族総出で袁力を探した。両親はまず木犀地へ行ったが、一帯はすでに解放軍部隊に閉鎖されていて、市民の姿はまったく見当たらない。両親は今度は、自転車に乗って天安門広場の方向へ向かい、息子の姿を探しまわった。途中、両親が目撃したのは、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。

 彼らはその時に見た光景を、手記の中でこう記している。

 「天安門へ行く途中、私たちは学生たちの群れに数多く出会った。ショックのあまり呆然としている人、手足に傷を負った人、負傷者や死者を台車や板で運ぶ人。若い人たちの顔からは心が炸裂したかのような深い悲しみがにじみ出ていた。

 天安門に近づいていくと、長安街の両側の商店の壁には、銃弾で開けられた穴が密集しているのが見えた。道路には血の痕跡があちこち残されていて、戦車がアスファルトの地面を押しつぶした跡が一目瞭然だった。

 天安門広場はすでに完全武装の解放軍兵士によって何重にも包囲されていた。包囲網の外側には大勢の市民たちが集まり、沈黙の中で解放軍と対峙していた。解放軍の兵士たちは一様に、銃口を市民に向けたままである」

 その後、袁可志夫婦はもう一度家に戻り、袁力がやっぱり家に帰ってないことを確認した。彼らはもはや、最悪の事態を予期せずにいられなかった。それからの数日間、袁可志夫婦は自転車で北京市内の病院を1軒ずつ見て歩き、袁力、あるいは彼の遺体が収容されていないか確認した。

 市内の各病院で、袁可志夫婦はまたもや地獄図を見ることになる。手記はこう綴られている。

 「私たちが各病院で目撃したのは犠牲者たちの遺体の山である。袁力を探すために44軒の病院を見回ったが、遺体が収容されていない病院は一つもなかった。少なくて数十体、多いと100体以上もあった。私たちは袁力の確認のために、遺体を一体ずつ見ていったが、ほとんどの死者は目を大きく開けたままである。なかには、頭の半分や顔の半分が削られた者、顔全体が血に塗れた者もいた。遺体の回りには、泣き崩れる遺族、気絶している母親の姿が多く見られた」

 袁可志夫婦は探しまわった44軒目の病院である海軍病院で、やっと袁力の遺体を見つけた。手記は、発見された時の袁力の亡き姿も記している。

 「袁力の身につけているTシャツとジーンズは完全に血に染まっていた。喉の部分に穴があき、背中の下にもう一つの穴があいているから、銃弾が上の方向から彼の喉の部分に命中して体を貫通したように見える。おそらく、戦車か軍用トラックの上からの発砲だったのだろう。袁力の両目は大きく開き、口も大きく開いていた。殺された瞬間に何かを叫んでいたのだろうか。火葬の時、私たちは彼の目は閉ざすことができたが、口はどうにもならない。袁力は最後まで、口を大きく開けたままの姿であった」

 袁可志夫婦の手記をここまで紹介してくると、私も涙を抑えられない。私と同じ年代に中国で生まれ育ち、1980年代の民主化の夢を共有した一人の若者の無惨な死である。彼には何の罪もない。悪いことは何一つやっていない。民主化運動の指導者や中核的な参加者ですらない。彼はただ、その時代に生きる一人の中国人青年として、自分白身の良識と良心にしたがって、普通に考えて普通に行動しただけである。そして彼は最後まで、「人民解放軍は人民に発砲するようなことは絶対にない」と信じていたようだ。

 その彼が殺された。自分の29歳の誕生日を目前にして、信じてやまない解放軍兵士の手によって銃殺されたのだ。戦車の上から、銃弾1発で喉から身体を貫通され、若い命とかけがえのない青春と、そして未来への夢のすべてを奪われたのである。

 1989年6月3日の夜から4日の未明にかけて、袁力と共に殺された若者や市民たちの数はどれほどだったのか。それは今でも、「最高国家秘密」として当の殺人政府である中国共産党政権の手によって封印されたままである。死者数千人という説がもっとも有力であるが、確実な根拠があるわけではない。

 しかし、袁力の殺され方からもわかるように、1989年6月3日の夜から4日の未明にかけて、鄧小平と彼の率いる中国共産党政権が、何の罪もない若者たちと一般市民にたいして、もっとも残虐にしてもっとも卑劣な無差別虐殺を行なったことは、揺るぎのない歴史的事実である。

 今からわずか18年前に起きたこの「北京虐殺」は、本書においてみてきた「虐殺の中国史」の最後を飾る歴史事件となったが、この虐殺も合めて、毛沢東時代以来の数多くの大量殺戮の罪にたいして、今の中国共産党政権は一度も謝罪したことがない。反省の色すら見せていない。

 このような中国共産党政権が引き続き中国を支配する限り、これからの中国史に、またもや「虐殺」が生じない保証はない。



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