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2018年8月15日 (水)

ルーズベルトの開戦責任




 
ハミルトン・フィッシュ著、渡辺忽樹訳「ルーズベルトの開戦責任」2014年草思社刊から


 
訳者まえがき


 
( 10〜11頁 )


 ルーズベルトの死後、彼の対日外交の詳細と日本の外交暗号解読の実態が次第に明らかになり、ハル・ノートの存在が露見すると、フィッシュは臍を噬んだ。窮鼠(日本)に猫を噛ませた(真珠湾)のはルーズベルトだったことに気づいたのである。彼は、対日宣戦布告を容認する演説を行なったことを深く愧じた。彼はルーズベルトに政治利用され、そして、議席を失ったのである。

 ルーズベルト外交の陰湿さが戦後の研究で明らかになると、フィッシュのルーズベルトへの怒りは日に日に増していった。しかし、彼は自重した。母国アメリカが世界各地で共産主義勢力と対峙している現実を前にして、既に世を去っていたとはいえ、自国の元大統領の外交の失敗を糾弾することはできなかった。

 長い沈黙の末、彼がようやくその怒りを公にしたのがこの書である。上梓された1976年は、真珠湾攻撃からすでに35年が過ぎ、ルーズベルトの死からも31年が経っていた。フィッシュ自身も既に87才の高齢であった。世を去る前に本当のことを書き残したい。その強い思いで本書を出版したのである。

 読者におかれては、あの戦いで命を失ったアメリカの若者や父や母の視点も忘れずに、本書を読んでいただきたい。著者が語っているように、「天使も涙する」ほどの手口でアメリカを参戦に導いた元大統領の政治手法にあきれてしまうに違いない。そして同時に、本書に記される内容がアメリカの為政者にとって、どれほど都合が悪いかも理解できるに違いない。

 本書はルーズベルト外交を疑うことをしない歴史家からは「歴史修正主義」の書と蔑まれている。「歴史修正主義」という言葉はプロパガンダ用語である。ルーズベルトの政治は正しかったとする「ルーズベルト神話」に挑戦する本書に、「歴史修正主義」というレッテルを貼ることは無意味である。歴史修正の是非は、あくまで真実を探ろうとする真摯な心を持つ者だけに許された判断である。


 
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15章 アメリカ参戦までの道のり:隠された対日最後通牒


 
国民も議会も、日本に「最後通牒」(ハル・ノート)が発せられてることを知らなかった


 
( 205~209頁 )


 ルーズベルト大統領が日本に最後通牒を発したのは1941年11月26日であった。この通帳は日本に対して、インドシナから、そして萬洲を含む中国からの撤退を要求していた。これによって日本を戦争せざるを得ない状況に追い込んだのである。この事実をルーズベルト政権は隠していた。しかしこれは紛れもない歴史的事実である。

 元来イギリスは、日本に対する外交政策は宥和的であった。それが変わったのは、1941年6月22日のヒトラーによるソビエト侵攻以降のことである。チャーチルは極東における大英帝国の利権を守るとFDRから約束されたのだ。日本との戦争を起こすための役者に不足はなかった。チャーチル、スターリン、オーウェン・ラチモア、スチムソン、ラクリン・カリー等。これがわが国を裏口からあの大戦に導いた役者の顔ぶれである。

 最後通牒であるハル・ノートは真珠湾攻撃以降も意図的に隠された。最後通牒を発した責任者はもちろんFDRである。日本の対米戦争開始で喜んだのはスチムソンでありノックスであった。彼らは根っからの干渉主義者であり、日本と戦うことになるのを喜んだ。もちろん戦いの始まりはもう少し遅くしたかったに違いない。フィリピンでも真珠湾でも、もう少し軍備増強したいと考えていたからだ。ルーズベルトもスチムソンもハル・ノートを「最後通牒」だと考えていたことは明らかである。スチムソン自身の日記にそう書き留めてある。関係者の誰もが日本に残された道は対米戦争でしかないと理解していた。わが国はこうして憲法に違反する、議会の承認のない戦争を始めたのである。アメリカは戦う必要もなかったし、その戦いを(アメリカ国民も日本も)欲していなかった。

 最後通報を発する前日の11月25日の閣議に参加していたのは、ハル、スチムソン、ノックス、マーシャル、スタークである。FDRが指名し登用した者ばかりであった。「どうやったら議会の承認なく、また国民に知られることなく戦争を始められるか」。彼らの頭の中にはそれだけしかなかった。私はFDRと同政権幹部の行なった隠蔽工作を白日の下に晒さなければ気がすまない。アメリカ国民は真実を知らなければならない。

 ここまで読み進まれた読者は、日本に対する最後通牒を、国民にも議会にも知らせることなく発した者の責任を容赦なく追及すべきだとの私の考えに同意してくれると信じている。そして同時に罪を着せられたキンメル提督とショート将軍の潔白も証明されたくてはならない。ハルゼー提督がいみじくも述べているように、この二人はスケープゴートにされたのである。三千人にもなろうとする真珠湾攻撃での犠牲者に対する責任を本当に取るべき人間はほかにいた。この二人の軍人が身代わりにされたのであった。

 キンンメル提督は後年、FDRを歯に衣着せぬ厳しい調子で糾弾している。

 「ルーズベルト大統領と政権幹部の連中が悪意をもって真珠湾を守る陸海軍を裏切った」(原注:1966年12月12日ニューズウィーク誌)

 「FDRがその企みの中心人物である。彼が日本艦隊の動向をハワイに知らせるなと命じたのである。日本の動きをマーシャルには知らせていた。しかしFDRはマーシャルにも緘口令をひいた」(原注:1966年12月7日ニューヨーク・タイムズ紙)

 日本に対する最後通牒(ハル・ノート)が通告されたのは真珠湾攻撃の10日前であった。この最後通牒が日本軍の攻撃を誘因したのは当然の成り行きであった。真珠湾に船体を横たえる戦艦アリゾナは命を落とした千人の水兵の墓標である。同時にあの最後通牒の存在を、今を生きる者たちに伝える遺産でもある。真珠湾で戦死した海軍や陸軍の兵士が戦争を始めたわけではない。始めたのはルーズベルトらのワシントン高官である。

 FDRは大統領であると同時に軍の最高司令官でもあった。州兵も彼の管轄である。彼の真珠湾攻撃にいたるまでの2年間の行動は、わが国をドイツとの戦いに巻き込もうとするためのものであった。アーサー・クロックはニューヨーク・タイムズ紙(ワシントン支局)の記者であったが、FDRに次のように述べている。

 「あなたは1937年の『隔離演説』以来、日本にはとにかく冷たく、そして辛くあたった。その結果、日本を枢軸国側に押しやってしまったのである」

 日本が枢軸国側に走ったことは大変な脅威となった。ナイ上院議員は次のように嘆いた。

 「日本が枢軸側についてしまったのは、わが国外交の拙作の結果である。日本には向こう側についてもらっては困るのである。日本はアメリカ国務省の強引な対日外交の結果、そうせざるを得なかったと主張した」

 日本はわが国との戦いを避けるためには、ほとんど何でもするというような外交姿勢をとっていた。ベトナムからは米、天然ゴム、錫などが必要だった。日本のベトナムへの進駐はフランスのペタン政権の了解を得た上でのことであった。言わずもがなのことであるが、もしオランダが日本に対して石油の供給を拒めば、日本は蘭印(インドネシア)に進駐するであろう。日本が生存するためには致し方ない。日本は元来フィリピンなどを含む南方海域には関心がなかった。しかし石油だけは違った。石油なしでは日本は生きていけない。商船も軍船も機能不全に陥ってしまう。

 近衛(文麿)首相は和平を希求していた。ワシントンでもホノルルへでも出かけて行ってFDRと直接交渉することを望んでいた。わが国の要求に妥協し、戦いを避けるための暫定協定を結びたいと考えていた。しかしルーズベルトは近衛との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった。

 駐日大使のジョセフ・グルーは日本がどれだけ和平を望んでいたかを知っていた。だからこそ直接交渉すべきだとワシントンに献言した。FDRは、そして彼をとりまく干渉主義者たちは(会見を拒否し)、姦計を弄し、わが国を戦争に巻き込んだのであった。わが国はあの戦争を戦うべきではなかった。不要な戦争であった。先述のアーサー・クロック記者はFDRの対日禁輸政策を責めている。あの政策が両国間の緊張を高め、日本を対米戦争に追い込んだ。そう主張している。


 
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 ( 210〜211頁



 ここで歴史の「if」を考えてみたい。もしも日本の真珠湾攻撃がなかったら、歴史はどうなっていただろうか。私は日本との間で、相互に納得できる妥協が成立したと確信している。日本の交易の権利を容認することで、中国およびインドシナから日本軍を撤退させることができたと考えている。そうなれば日本はフィリピンとも蘭印とも貿易が可能になったはずである。

 コーデル・ハル国務長官のメモワールは史実を探る絶好の資料である。もちろんこのメモワールは長官自らの、そしてFDRの開戦責任を隠そうとしているところがあるので注意が必要である。日本の真珠攻撃を話題にする場合、必ず「破廉恥な(infamous)」という形容詞がつけられる。FDRの「恥辱の日」演説があるため、そうせざるを得ないのだ。戦いが始まったこと、真珠湾攻撃を語るときには誰もがこの形容詞を使った。私もそうであった。しかし現実はそう簡単なものではない。私は、日本が真珠湾攻撃をしたのは最後通牒(ハル・ノート)を突き付けられたがゆえであることを明らかにした上で、なぜわが国は真珠湾攻撃を日本の「破廉恥な」行為として語り続けなければならないことを明らかにしたい。そこには秘められた悪意が存在している。

 日本に対する最後通牒が日本の野村(吉三郎)駐米大使に手交されたのは1941年11月26日のことであった。その通牒は日本のすべての軍隊の中国およびインドシナからの撤退を要求していた。軍隊だけでなく警察の撤退までもが条件であった。中国という表現には萬洲も含んでいた。この通牒を前にした日本は壁際に追い詰められたネズミであった。戦う以外の道が残されていなかった。そうしなければ、日本の指導者は自殺を迫られたか、暗殺されたに違いない。

 ハル長官もメモワールでは11月25日の閣議の模様は語られていない。しかしスチムソン陸軍長官はメモを残していた。この日の議題はいかに日本を挑発して彼らに砲撃の最初の一発を撃たせるか、ということだけであった。この翌日にハル長官は、日本との暫定協定を結ぶことや、90日間頭を冷やす期間を待つという考えさえも捨て去った。その結果、あの破廉恥な最後通牒を野村大使に手交したのであった。


 
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16章 真珠湾の悲劇


 ルーズベルト政権の責任回避のために二人の司令官は生贄にされた



 
( 223〜225 )


 FDRは真珠湾攻撃の14時間前に日本の攻撃があることを知っていた。それにもかかわらず彼は何の行動も起こさなかった。彼のしたことは「恥辱の日演説」の内容を考え、自らの陰謀をいかに隠し続けるかに智慧を絞っただけである。彼は、日本がわれわれのメッセージに対する公式回答を持ってきたのは真珠湾攻撃開始の1時間後であると演説の中で説明した。しかし、すでに述べたように日本の回答の内容は14時間前にわかっていたのである。

 内容を知っていたのはFDRだけではない。ハル、スチムソン、ノックス、マーシャル、スタークも知っていたことは間違いない。もしこうした政府高官が知らされていなければFDRの責任である。FDRの隠蔽工作は「恥辱の日演説」で実に幸先のよいスタートを切った。議員の誰にも対日最後通牒の存在は察知されなかった。私の演説内容を見れば、FDRの隠蔽が如何に効果的であったか一目瞭然である。

 今では、ルーズベルトの「恥辱の日演説」は、偽善と嘘にまみれていたことが明らかになっている。あの戦争の原因、戦争中起った数々の出来事と戦争の結果に、真実とは何だったのかを探ろうとするサーチライトの光が当てられた。その照射熱に当って、ルーズベルトの言葉はペラペラと燃えあがった。そして彼の言葉は灰になってしまった(彼の言葉に真実はなかったのである)。あの戦争がもたらしたものは何だったのか。言わずもがなである。わが国の損害はこれまでに経験したどの戦争よりも甚大であった。わが兵士は勇敢に戦った。自由と民主主義のための戦いに勝利する。それが戦いの目的であった。しかし、それはあのヤルタ会談で意味のないものになった。世界の半分がスターリンと共産主義の支配下に入ったのである。

 ルーズベルトのスターリンへの譲歩の結果、東ヨーロッパそして中国が共産主義の支配下に組み込まれた。6億人もの人々が共産主義の支配下に入ったのである。これがアメリカ国民が騙されて始めてしまった戦争の代償なのである。アメリカ国民は戦争など望んでいなかった。私はあの戦争は必要のない戦いであったと思っている。駐日大使であり、知性も高く、誠実なキャリア外交官であったジョセフ・グルーの報告でも明らかになってきているが、日本政府も日本の国民も戦争を望んでいなかった。もちろんわが国も日本との戦争など望んでいなかった。

 わが国内の干渉主義勢力は気が違ったかのように、わが国は、世界を啓蒙する義務(明白なる宿命)を神に委ねられているのだと声高に訴えた。わが国は世界の警察官の義務があると主張した。わが国が被ることになる人的犠牲にも財政的負担にも全く頓着しない物言いであった。彼らの主張は、圧倒的多数の国民の意思や議会の考えに反するものであった。



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