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2018年8月16日 (木)

ルーズベルトの死の秘密




 
スティーヴン・ロマゾウ、エリック・フェットマン著、渡辺忽樹訳「ルーズベルトの死の秘密」2015年3月草思社刊から


 
訳者まえがき(4頁)


 本書は日本が戦った男フランクリン・デラノ・ルーズベルトとはいかなる人物であったかを理解するための入門書である。日本人が「井戸の外」に出る第一歩となる書である。本書の出筆者は医学者スティーブン・ロマゾウとジャーナリスト、エリック・フェットマンの二人である。メインテーマはフランクリン・ルーズベルトの真の死因を探ることにあるが、けっして医学的謎解きの書ではない。彼がいかにして政権を奪取したか、死に至る病を抱えたルーズベルトがどう政権を維持したか、そして政権要路、医師、メディアあるいは大統領を囲む女たちがそれにどう関わってきたがが語られる。さらに彼の死の場面や亡骸の防腐処理の模様までが赤裸々に描かれているのである。ここまで書ききった書はアメリカでもこれまでになかった。

 もちろん、本書を読むだけでいっきに井戸の外には出られはしない。それでも、少なくとも井戸の外にでることの大切さを伝えてくれる。これ以上ここで語るのは読者に対して失礼になる。翻訳者として、歴史研究者としての感想は巻末に記すことにする。


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訳者あとがき(330〜337頁)


 読者の多くは本書を日本人の視点で読んだはずです。ですからその後の読後感も日本人としてのものになります。それでは、アメリカ国民であったらどのように感じるのでしょうか。アメリカには皇室がありません。大統領は世俗の権力の頂点に立つと同時に権威の象徴でもあります。大統領は国家元首であり、国柄そのものです。彼の振る舞いもそれにふさわしくなくてはなりません。国民がそれを期待するからです。

 翻って日本は、国家元首は天皇であり、天皇が国柄を象徴します。世俗の権力からは超越し、切り離された存在です。ですから、日本人は、最高権力者(内閣総理大臣)に対して、どのような批判を加えても心が痛みません。総理大臣は、ただ世俗権力のトップに立っているだけですから、彼への批判がブーメランのように批判者自身には還ってこないからです。

 しかしアメリカ国民にはそのような贅沢はありません。大統領批判は、国そのものを批判し、国民自身をも批判することになるからです。ですから、どうしても大統領批判には慎重になります。常に躊躇いの気持ちと戦いながらの大統領批判にならざるを得ないのです。アメリカ歴代大統領にはあまり感心できない人物もいます。それでも彼らに対する批判は、少なくとも日本の論調にくらべれば、いたってマイルドです。

 さて、本書の著者二人の心理はどのようなものだったでしょうか。本書のテーマはフランクリン・ルーズベルト(FDR)の本当の死因を探ることにありますが、著者たちはそれだけでなく、大統領の生き方まで書いています。おそらくFDRの性格まで、あるいは信条まで踏み込まなければ、死因にまつわる謎も解けないと考えたのでしょう。

 著者たちも述べているように、FDRは自身の病気に対して受け身ではありませんでした。「病気を自らねじ伏せる」という強烈な自信を持っていたのです。その特異な個性ゆえに、彼を取り巻く医師も政権幹部も親族も、そして彼を愛した女たちも振り回されました。そして彼の進めた外交にまで影響をあたえたのです。この書を読んだアメリカ人の多くが、このような人物にアメリカの政治と外交を四期も任せた歴史があったことに愕然としたに違いないのです。

 スターリンにヨーロッパの東半分を差し出した「ヤルタ会談」は戦後アメリカ国内でも強い批判を浴びています。本書で語られるFDRの病状からすれば、おそらく、会談に臨んだ大統領の頭脳のほとんどは論理的思考機能を停止していた可能性があります。ヤルタ会談の写真に写るFDRは深刻な表情を見せ、指導者の威厳を保っています。しかし本書から読み取れる彼の容態から、会談の実態は完全にスターリンの一人舞台であっとろうことが窺われます。

 このような大統領を描写することは、アメリカ人の執筆者として心苦しかったでしょう。著者たちも述べているように、本書の中心テーマがFDRの真の死因を探ることにあったとしても、政治的意味合いを持つことは避けられません。冒頭に述べたように、大統領は国柄そのものの表徴です。本書に記された大統領の姿が本当であるはずがない、とアメリカ人読者が反発してもその心情は理解できるのです。

 読者の多くが「歴史修正主義」という用語を知っているはずです。この用語には、第二次大戦以前にはネガティブな意味合いはありませんでした。公的な歴史解釈に間違いがあると考える歴史家は比較的自由に自らの意見を開陳することができました。

 たとえば、第一次大戦の戦後処理を決めたベルサイユ会議(1919年)に対して、歴史家のシドニー・B・フェイは、「すべての責任をドイツ及びその同盟国にありとしたベルサイユ条約で下された判決はごまかしである」(「第一次大戦の起源」1928年)と批判しました。アメリカ建国の父たちはヨーロッパ問題に介入してはならないと国民を戒めていました。その戒めを破ってウッドロー・ウィルソン大統領はヨーロッパの戦いへの介入を始めました(1917年)。そしてベルサイユ会議では全ての責任をドイツ一国に押し付け、ヨーロッパ国境は民族問題にほとんど配慮せずに引かれたのです。それがのちの第二次大戦の火種になったのですから、フェイの指摘は正鵠を射ていたのです。

 ベルサイユ体制の欠陥を指摘したフェイの解釈は次第に広がりを見せ、アメリカ国民の多くが「やはりヨーロッパの揉め事には介入すべきではなかった」と思うようになったのです。ですから、ナチスドイツが、ポーランドに侵攻(1939年9月)しても、イギリスへの空爆(1940年9月)を始めても、国民の80パーセント以上がアメリカの参戦を拒否したのです。

 ルーズベルト大統領は、強硬な対日外交をてこにして、結局はアメリカの参戦を実現しました。「全体主義の悪魔のような国」であるドイツと日本を降伏させ、米ソ英中の四カ国で世界をコントロールすれば平和が訪れると考えていたFDRは、ソビエトを友国と扱い徹底的に支援したのです。彼は政治家としては誰もが舌を巻く演説の名手でした。その甘い声は電波に乗ってアメリカ国民にアメリカ参戦の正当性を訴えました。

 しかし、現実には防共の砦となっていたドイツと日本が倒れると、ソビエトが猛烈な勢いで世界に共産主義を拡散していきました。東ヨーロッパ諸国は次々と共産化し、1949年には中国に共産主義政権が成立しました。その翌年には朝鮮戦争が始まります。この戦争をアメリカは実質一国で戦わなくてはなりませんでした。

 それまでのアメリカであればかつてのフェイがそうだったようい、歴史家がFDRの外交を批判しても一向に構わないはずでした。現実の世界の状況は彼の外交の間違いをはっきりと示していたのです。ところがそうはなりませんでした。FDRの外交を批判するどころか、まるで悪行であるかのような、いやもっと言えば、反アメリカ的な行為のような空気が生れたのです。そして、FDRの外交を批判する歴史学者には「歴史修正主義者」という言葉が浴びせられることになったのです。かつては歴史修正に善悪の価値観はありませんでした。フェイがそうだったように、歴史解釈が間違っていれば修正されるのは当たり前でした。もちろん冒頭に書いたように、アメリカ人にとっては自身への批判になるだけに、その方法は慎重にそして丁寧なものになったはずです。しかしFDRの外交についてだけは批判を一切許さなくなりました。批判的な学者たちに対して侮蔑の意味をこめた「歴史修正主義者」のレッテルが貼られるようになったのです。

 なぜアメリカはそんな空気に突然覆われてしまったのでしょうか。私はFDRの外交があまりに愚かだったからではなかったかと推察しています。FDRがアメリカの先人の知恵にならってヨーロッパ問題非介入の外交をとっていれば、ポーランドを巡るヨーロッパ方面の戦いも、中国での日中の戦いも局地戦で終了し、関係国間で落としどころが見つかる可能性が高かったのです。FDRは戦いの当事者にならず、善意の第三者として仲介役を買って出ることができる立場にいました。アメリカの持つ強力な(潜在的)軍事力は仲介に大いに力を発揮したはずです。そうすることでFDRは和平維持に大きな貢献ができたはずなのです。しかしFDRの外交には、緊張を高めることはしてもそれを緩和する作業は全くと言っていいほど見られません。それがなぜなのかについては先人の多くの研究がありますから、機会があれば日本の読者に紹介したいと考えています。

 いずれにせよアメリカはFDR外交の結果、多大な犠牲を払い、戦いに勝利したにもかかわらず、たちまち、ただ一国でソビエトの主導する世界革命(世界の共産化)に対峙しなくてはならなくなりました。大戦終了後わずか5年で再び朝鮮半島にアメリカの若者を送り出さざるを得なくなったのです。

 そんな状況の中で、FDRの外交は間違いだった、アメリカは40万人の戦死者も70万人の負傷者も出すことなどなかったのだ、と歴史家に批判されたら国が持たないほどの窮地に立たされてしまっていたのです。当時のアメリカの孤独感と危機感は、国家安全保障会議(National Security Council )の機密文書NSC68号(1950年)からも類推することができます。

 「このままクレムリンの支配下に入る地域が増え続ければ、彼らとの戦いに、我が国と同盟を組む相手さえいなくなるだろう。この危急の時期にあって、我が国はまだ優勢にある。アメリカ国民は立ち上がらなければならない。我が国が直面している危機はわが国の存亡にかかわるだけではない。文明そのものの将来がかかっている。われわれは今あれこれ考えている余裕はない。アメリカ政府と国民は断固とした態度で運命的な決断を下す時に来ている」

 これが朝鮮戦争勃発時もアメリカの心情だったのです。傍点部にある「われわれは今あれこれ考えている余裕はない」という文章がいみじくも示しているように、ルーズベルト外交の是非を悠長に議論している余裕などアメリカにはありませんでした。歴史学者に「防共の砦となっていたのはドイツと日本ではなかったか。それを破壊したのはルーズベルト外交である」などと主張されたら、朝鮮に若者を送り出す正当性まで崩れてしまいます。ヨーロッパでも共産主義者の動きは活発で、いつ再びヨーロッパで戦いが始まってもおかしくありませんでした。

 そうした世界情勢の中で、FDR外交を批判的に語ってはならないという空気がアメリカの言論空間に生れたのです。修正主義という用語に倫理性の意味合いを含ませて、FDR外交批判に蓋をしました。私には、この方針を指導した特定の個人がいるとは思えません。おそらく時代の危機感の中で、そうした空気が自然発生的に醸成されたのではないでしょうか。

 アメリカの主流に属する組織もこの空気を作るのに一役買っています。ロックフェラー財団もスローン財団も「歴史修正主義者」の研究にはけっして資金を出そうとしませんでした。アメリカ外交に現在でも強い影響力を持つ外交問題評議会(CFR)も、ルーズベルト外交を批判的に解釈する「歴史修正」を拒否したのです。クリントン元大統領、コンドリーザ・ライス元国家安全保障問題担当補佐官、スーザン・ライス国連大使らは、みなCFRの会員です。政治家だけでなくリチャード・ブッシュ三世のような東アジア外交立案に関与する立場にいる研究者もメンバーとなっています。CFRは現在でも大きな影響力を持っています。FDR外交を批判してはならない。批判するものは「歴史修正主義者」である。この空気は今でもアメリカの言論空間を厚く覆っています。

 日本が「南京虐殺事件」や「慰安婦(売春婦)問題」について反論すれば、アメリカの主流メディア(とくにリベラルうを標榜する『ニューヨーク・タイムズ』紙など)が色をなして怒りを見せるのは、” 日本は悪の国であった ” という評価に修正がなされるようなことをさせたくないからです。この関門が崩れると、ルーズベルト外交批判を閉じこめていたパンドラの箱が開いてしまいます。(注:この点について興味のある方は拙論「南京事件・慰安婦論争:本当の的はアメリカだ」〔『文藝春秋スペシャル』2015年春号〕を参照されたい)

 アメリカの歴史学者の多くが、今でもフランクリン・ルーズベルトは一流の政治家であったと著しています、しかし、歴史解釈に善悪の判断を持ち込まず、史実をベースにルーズベルトを冷静に語る史書も増えてきました。本書もそうした一群の書のひとつに分類されます。二人の著者もルーズベルトの行動を冷めた目で分析していますが、ルーズベルト個人を善悪の基準で批難するようなことはしていません。彼の政治と個性を、彼の患った「病」を通じて分析していているだけなのです。このような書に「歴史修正主義」のレッテルを貼ることがいかに意味のないことかよくわかると思います・
 
 訳者まえがきに書いたように日本国内の太平洋戦争(大東亜戦争)の分析は、国内事情を語り、日中戦争の原因を語ることがほとんどでした。しかしそれだけでは、井戸の中から天気予報をするようなものだと書き、外に出ることを勧めました。本書だけで、井戸の外に出て、頭上に広がる天空を観察することはできません。それでも、たとえば、「あの戦争はフランクリン・ルーズベルトというアメリカ歴史上でも極めて特異な政治家によって起こされた側面が強い」という解釈に対して、それに同意できないとしても、少なくとも聞く耳だけは持てるに違いありません。



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